十月十七日(木)薄曇。宮本輝『泥の河』読む。向田邦子いらい久々に情景、映画の如く脳裏に浮かぶ。 それもそのはず宮本ワールドにてサイト見ればこの人の構築され た世界理解に易し。
▼芸人謝霆鋒君交通事故運転手早変わりと警察官への贈賄につき裁判判決出て今日までの二週間の拘置所収監に て懲りただろう、と240時間の社会服務令のみ。警察官が禁固半年、身代り運転手ですら禁固四ヶ月に対して謝霆鋒へのこの「求刑」は実質的な無罪判決。通 常、スリなどの軽犯罪において道路清掃などこの社会服務令用いられるが芸人の場合、老人ホームだの孤児院だのの施設訪問から社会公益活動参加ですらこの社 会服務に当り通常から宣伝兼ねてこういった活動への参加する芸人にとっては宣伝活動しておれば240時間の「お勤め」終了。星島日報の社主Sally Auなど財界有力者、芸人など著名人に対するこの司法の優遇とはいったい何ぞや。中共のほうがまだマシ。
▼畏友M君よりメールあり。内容を解説も含めて茲に綴れば日本語の使役は命令の「仕事をさせる」で使役受け 身は「仕事をさせられる」。つまり使役受け身には「したくないがせざるを得ぬ」という心あり。それがイク(逝く)においては使役であるはずの「俺、夕べは サイコーに調子よくて相手を5回もイカせたぜぇ」の場合、話者に強制の直接命令もなく、「弟の死は両親を悲しませた」のような間接的な行為でもなし。もし 日本語を学ぶ者よりこの「イク」に関する質問あった場合(質問せぬか、こんな文……笑)説明に難し。さらに使役受身で「何度もイカせられました/イカされ ました」となると強引に不快なことを受けたという解釈ではなく寧ろむしろ快感にてそこはか嬉しき響きあり。日本語は奥深し。敢て文法的に解釈すれば、つい イクことを恭事=positiveに捉えることに誤謬あり、本来はイクことは「まだ気持ちいいから快感を持続させたいからまだイキたくない」が前提であ り、それに反してまだイキたくない善がる相手を無理強いして「イカせる」ことは命令で、イカされてしまったことは確かに不本意な結果なり。さう捉えれば使 役、使役受け身の原則に反しておらず。まぁ何回もイカせられれば不本意どころか本望なりしもののか。
▼教育基本法の改正に向けた中央教育審議会「法の見直し」前提とする中間報告素案明らかになりこれを基に中 間報告をまとめ、これから「国民」(誰ぞや?)に意見を求め年明けにも答申を出し自民党次期通常国会での改正案の上程=可決、と出来レースであること明 白。「現行法には新しい時代を切り開くたくましい日本人を育成する観点から重要な教育の理念や原則が不十分だ」と説明し「『公』に関する国民共通の規範の 再構築」や「国や社会など『公』に主体的に参画する意識や態度を養うこと」、「日本人のアイデンティティー(伝統、文化を尊重し、郷土や国を愛する心)を 持つこと」が重要と。さて反論(笑)。まず、「新しい時代を切り開くたくましい人」の育成など別に平成に 非ずとも明治の御一新だろうが聖徳太子の時代だろうが新石器時代だろうがいつの時代も逞しき人おり今更敢て述べるもお題目にすぎず。そもそもなぜ「新しい 時代を切り開くたくましい」者が日本人ぢゃないといけぬのか。教えてほしい。これまでの歴史でも新しい時代を切り開くたくましい人が先住民に非ず弥生人、 朝鮮支那からの渡来人、または進駐軍(笑)であつた歴史もあり。在日の朝鮮人支那人ら出自を異にする者と の切磋琢磨あってこそ新しき時代切り開かれるのでありいちいち日本人だの朝鮮人だのといふ認識など不要。新しき時代が切り開かれる時といふものは経済と産 業の大きな変化がある時であって、その地変動によって政治、文化の体制までが必然的に変わるものであることはマルクスの説いた通り。今の日本ほどこれほど 停滞した経済体制のなかで言葉ばかり「新しい時代を切り開く」などと宣ったところで言葉遊びにすぎず。次に、『公』に関する国民共通の規範の再構築など求 める前に『公』に属する者がまず襟を正し公儀を守り国民がそれを規範と承へる礎となるべし。三つ目は、伝統、文化を尊重といいつつアイデンティティーなる 醜悪ある語を用いることこそ伝統も文化も其処に有らず。美しき言葉も忘れ泰西の語を借りて何が伝統と文化か、呆れて言葉もなし。そして「国を愛する」こと について……国を愛せと言われてもその<国家>なる近代の概念こそ我々の慈しんで參った悠久の歴史のなかではフランス革命以降の、ビクトリア王朝以来の所 詮数百年の、それも渡来の概念にすぎず、<国のかたち>としてのConstitutionももてぬ<国家>において愛国心といふ言葉ばかり説くこと即ち 偏った国家主義の悪弊あるのみ。太陽暦を以て旧暦の節句を祝ふことの矛盾すら感じぬ者に、どうして風土が根づく郷土を慈しめるものか。そもそも、愛国心、 愛国心と宣ふが真摯に豊葦原瑞穂の邦を慈しむ保守反動右翼の諸君は軽々しく伝統も文化もなき明治の時代に「とってつけた」愛国心などといふ言葉を用いるべ からず。<愛>といふ語ぢたい元来「人に物を贈る」の意にて「愛玩」の語のように犬や猫など籠物や物を愛(め)で ること。つまり愛の対象は崇高に非ず目下。荷風先生がカフェの女給、私娼と遊ぶは之なり。荷風先生慕ふ御母堂は愛さぬ。崇高なるものは本来「慈しむ」。対 -国家についてみればその観念の兆しは水戸学の礎たる徳川光圀にすでにあり、国家といふ近代の観念こそなきものの権力に塗れた幕府と異り権力構造から除外 された朝廷をば光圀は敢て後世の本居宣長の言葉でいへば「もののあはれ」でいとおしむ観念あり。宣長まではさういつた心地あれど平田<神道>あたりより捩 れ、Loveなる言葉渡来し愛といふ字を当てたあたりから誤謬甚だしくなり。愛国なる語には「もののあはれ」を慈しむ本来の心、能わず。また、 patriotism(愛国主義)、patriot〔愛国者)、patriotic(愛国的)と語こそあれ「愛国」なる名詞もその動詞もなし。ちなみに patri-は「父」を意味することはpatriarchy(父系社会)なる語に見られる通り権力構造に基づく語派生す。この権力=国家に対する隷属関係 を意味する語がpatriot系の言葉にて、ここに母系の<愛>などなきことは明白。百歩譲って<郷土>愛することは出来ても<国家>なる権力構造愛する ことは正に異常愛以外の何ものにも非ず。今ふと思えばヤンゴトナキ宮様にあられてもお名前にこの字あれどそもそも御祖父にあたる今上陛下御幼少の砌り敬虔 なるクエーカー教徒のヴァ イニング夫人の博愛なる精神の教え愛でたければ浩宮様におかれても然れてお子様の御名にこの字を当て給わる。ちなみに<love>なる語の語源に ついては故・羽仁五郎翁の著作に奴隷制よりのloveの歴史詳し。そもそもloveといへば基督教の本源、悠久なる言葉のようでいて泰西に於ても実は loveが今日の人を「愛す」意に用いられたるはビクトリア朝あたりからの観念にすぎぬのもなり。さういつた古今東西の智慧知れば、伝統にも文化にも浅き 知恵しかなき者にかぎり国家なる幻想に立脚したつもりにて新しい時代を切り開くたくましい国民といつた実は中身空っぽなることを推論する。邪論。最後に、 この答申にて宗教教育については「異文化理解や宗教に関する知識が必要」といった意見を並べるにとどめ改正の方向性にまでは踏み込まなかった(朝日)といふが国家主義の愛国教育こそ邪教(笑)。最後の最後に 一言。この中央教育審議会の会長は鳥居某なる前慶応義塾長と。Loveに愛といふ字を当ててが福翁先生という言い伝えあり。その当て字の良否は茲では問わ ぬが、まず自立した個人であることが人間の基本であると説いた福翁先生にあっては中身空っぽのまま愛といふ字がここまで無節操に用いられるこの平成の キョービの観念主義をば墓の坤下にてどう思われていることか。結論だけ言えば(しつこい、か)、新しい時 代を切り開く逞しき人に<国>を愛する心は要らず。本当に逞しき人集へば単なる組織としての国家など自ずから逞しきものとなり「国を愛する心」などという 空っぽのお題目は不要。