富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

12月27日(水)Mac環境がUSBになり現有せしデジカメもプリンタもつながらなくなってしまひ皇室大厦はCarblexにてSmart Card用のアダプタとUSB&SCGI変換ケーブル購う。旭屋で木樂舎の『ソトコト』の定期購読を申し込む。晩方香港イバラキッズの代表M氏と銅鑼灣は湾岸グロチェスタ道に面した Tokyo Dine の268なる店、かつて中環はBank of Americaの地下にあったAsahi Super Dryの店を彷彿させる日系パブで最近でいえば銅鑼湾ならキリンシティのような、つまりは麦酒会社の冠をいただいたような和風西洋パブなのだが、個人的にはやはり朝日麦酒のドライの美味さが理解できず、その上、どうしても揚物系が多いメニューでサラダオイルで揚げた品が苦手で、つまりあたしゃドライで揚物を喰うと気持ち悪くなる体質のようだ……といいつつ本当に美味しい麦酒があってミートクロケットとか肴に、電気ブランをひっかけて、ってのもかなりオツなんだけど……と思っていたら経営者は旧知のO氏。ちょっとというか一番気になったのは麦酒を頼むと生麦酒がジョッキでなんだけど頼んでから10秒後くらいに出てきてしまうのだ、麦酒のディスペンサー……ってこの言葉、なんかキャッシュディスペンサーでイヤなんだけど日本語でなんというのだろう、確かに麦酒の原液と水を混ぜるからディスペンサーなんだけど、それじゃなんだか美味しくないよね、混給塔ってのは意味でいいんだけど音と字が汚いし、いっそのこと仏舎利にしよう、そう仏舎利、本来ディスペンサーってのはそこから最高の麦酒が溢れ出てくるんだから仏舎利なんだけど、アサヒのドライになるとほんとエスプレッソマシンのような正にディスペンサーで一気にそれなりの生麦酒が注げる、ほんとなら職人的給仕が素晴らしい注ぎをして最高の飲み手がぐいぐいとエンジェルリングをジョッキに残してこそ生麦酒なんだけど、そんな数秒で素人が注げるんだから美味しいはずがない……日本人倶楽部のサンミゲルの仏舎利と注ぎ手がやっぱり見事って思うし、そんな簡単に注がれた麦酒が美味しいはずがないわけで、麦酒が余りに消耗品的に扱われてて敬虔さがないのが気になった次第。麦酒といえば中環はハリウッドロードにあったBrezel Haus、クリスマスイブの前日にバスでハリウッドロードを通ったら夕方なのに閉まっていて、こんな掻き入れ時に……まさかっ廃業?と思い電話してみたら電話はツーと不通、廃業したみたい、すごく美味いワルシュタイナーとErdingerを飲ませてくれる店で、そのかわり注文してから五分派待たされて仏舎利からじっくり抽出した麦酒が供されたんだけど、今はCXでフライトアテンダントしてるP君とドイツ人のW君のいれる麦酒は最高で、週に二回は行っていたし、土曜日の夕方、外から覗くといつもカウンターにアッシがいるとZ嬢にも笑われていたが、彼らが辞めてから途端に麦酒が二分で出てくるようになり味は著しく落ちてそれっきり行かなくなって半年余、南無。帰宅して口直しにSmirnoffをライムジュースとソーダで割り、ちょっと回復してモルトBowmore所得税の税額通知受領、毎年こうしてこれだけ納税しているのだから市民として権利は充分に受益した上で堂々と香港政府には厳しく対処せねばと思う。『信報』の2000年香港政経大事回顧は「打倒董建華の声の中で北京が董建華連任を支持」「鐘庭耀事件で香港大学長引退」「程介南立法議会の議席を放棄させられる」「江主席が香港記者を簡単幼稚と怒訴」「住宅公団の王主席が醜聞にて下台」「警察が学生を逮捕して公安条例争議」「董建華が住宅建設目標八万五千戸目標は98年には既に存在せずと言い訳」「Immigrationで多災多難」を挙げていた。それにしても嗤えたのは董建華の八万五千戸事件で98年当時の施政方針の骨子を今になって達成不可能となったら事実改竄で98年時点でその目標はすでに消滅していたという、そんな言い訳はガキでもせぬが、その董君の連任を支持する北京も北京(嗤)。大塚隆史『二丁目からウロコ』読む。大塚隆史はアッシが高校生の頃ラジオの「スネークマンショウ」にて水曜日だったか大塚君がゲイ番組していて、それより前には中学生の時に読んでいたポパイで「千夜一夜物語」って連載をしていて、実は今回この本で知ったのだけど桑原茂一氏がスネークマンショウに大塚君を引っぱったのはこの連載を読んだことが契機だったそうな。「スネークマンショウ」といってもYMOとLP化したやつじゃなくてラジオで放送していてスポンサーともめてわずか二年弱で中止した番組、これと中学生の時に読んでいた『面白半分』と『ビックリハウス』がおそらくアッシの思想形成の中で相当の比重を占めていると思うのだが、大塚君のこの本は悲しいかな彼は書き手ではなく翔泳社という小さな出版社でおそらくちゃんとした編集者が傍なかったのだろう、文章はイマイチでとくにマトメになると急にですます調になる下りはいただけない。