富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2016-06-03

農暦四月廿八日。夜中でも摂氏30度といふ日が続く。台湾では雨もひどいが百数十年ぶりといふ暑さで摂氏38.7度を記録の由。日暮れて早晩だと思つたら夜も七時。だいぶ日が長い。家人と鰂魚涌。海景樓から益昌大厦に入りパティオといふには巨大すぎる、映画「ターミネーター」にも登場した空間に面したThai Niyomといふタイ料理屋に飰す。小さな、サーヴィスのとても心地よい食堂。外で遊ぶ子らの声がビルに反響してにぎやかに聞こえる。アタシの子どもの頃を彷彿する。
毎日新聞1面トップで「辺野古決定 政権の本音 梶山元官房長官98年に書簡」(こちら)。政府は「沖縄の地理的優位性」や「米軍の抑止力」を理由に名護への移設理由してきたが、結局のところ「本土の基地反対運動」があり沖縄への押し付けを裏付ける梶山静六先生の書簡は沖縄の太田知事との間で密使役となつた国土省の下河辺淳(1923〜)宛。静六にとつてこの人が茨城の「郷里の先輩」とあるが下河辺は東京生まれで而も祖父は上方の医師・下河辺俊斎で、その人がどう茨城に繋がるのか、と思つたら旧制水戸高校に学んでゐた(ちなみに静六さんは太田中学から最後の陸士)。
陸上自衛隊も晋三の気分で強くありたいのか、かつての「人を守る手のひら」のイメージ(左)から日本刀が国を守るイメージに。日本刀はマズいでせう、アジアでは。殺される。「守りたい人がいる」といふメッセージも両義性に今更気づいた。「守りたい相手がゐる」ぢゃなくて「自分が守りたい」といふこと、それは「戦ふ」ことか。
▼李怡さんが蘋果に書いてゐる「六四與香港前途」(こちら)。歴史に「もし」は難しいが「如果六四發生在中英簽訂聯合聲明之前,那麼香港的命運還有可能改變」と。中英合意で香港返還が決まつてゐたから1989年の天安門事件に遭遇した香港は、あれを我がこととして考へ民主化への支援の手を差し伸べたのは当然のことであつた。

進中國民主,期盼可以改變香港命運,是八九以後相當一段時期針對中共專制政權的香港民主派主旋律。
九七後十九年的變化,特別是中共國的經濟發展帶來的是政治與社會的退步,「建設民主中國」日見渺茫。當然,人們仍然可以追逐難以實現的夢想,然而中共國對香港政經社的侵凌,不顧《基本法》對香港的赤裸裸干預,而中國人的形象越見醜惡,使香港人對中國人身份認同感迅速下滑。與支聯會領導人身份重叠的人士,在守護香港人利益的種種議題上,都顯示他們或交了白卷,或傾向大陸人或新移民利益。最重要的,是支聯會漠視社會上特別是年輕人的身份認同已徹底改變,仍然標舉愛國、建設民主中國等旗幟。年輕人把紀念六四與探討香港前途聯結,實際上是繼承香港人參與八九六四的初衷,重點是:我們要以中國人或香港人的身份去爭取更好將來。支聯會卻把悼念活動與探討香港前途問題切割,似乎真是跟不上形勢了。

これについて劉健威は信報で「政治自閉症」に書いてゐる。

新一代卻以否定香港人對六四屠殺的是非心、惻隱心來自我界定「香港人」身份;對他們來說,六四是中國人的事,關我們「香港人」什麼事?你要組織悼念活動,就是要給中國做「鴇母龜公」。
他們要給人的基本感情畫上標籤、塗上國族色彩;也即是對他們來說,具有普遍意義的「人」是不存在的――要做「香港人」, 首先不要做「人」。這就是新一代的荒誕邏輯。
八十後和更年長的人都知道,香港沒民主,是中國「一黨專政」的結果;不結束一黨專政,香港永遠不會有真正的民主;所以六四時期香港人很積極地支持天安門學生,希望促成中國的正面改變。但許多九十後把香港跟大陸切割開來了,他們認為,我在香港爭民主爭獨立就是了,中國關我什麼事?六四關我什麼事?