富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2012-04-03

農暦三月十三日。朝八時半に西貢。上海からランニング仲間とトレイルに來港中のI氏らに加はへてもらひ馬鞍山に登る。このコースは三、四年ぶり?で体重は5kg以上軽ければそりゃ楽で最初は気楽だつたが馬鞍山の上りに入るとまぁ足が重くて上がらず。呑み始めた糖尿の薬の所為かしら。アタシがペース遅くしてをり、このまゝ今日の終点=沙田坳の茶屋まで行くのはかなり辛く昂平で一行と別れ北港坳に下る。ミニバスで西貢へ。昼前で松記車仔麺で素食麺。Duke of Yorkが昼に開いたところで口開けで麦酒一杯。ジムに一浴してから介護用品等扱ふ専門店でバイエル社の血糖値測定器購入。この新しい玩具で早速、遊ぶ。自分に針を刺すなんて実に大人らしい。初めての測定は食後3時間で109.8mg/dlであるからそんな悪くない。サイトで見て本当に欲しかつた最新鋭の玩具はこちら。夕方、金峰靚靚の粥を買つて帰り粥を啜る。晩は酒を飲まず。すごい発見をばしたのだが酒を控えるだけで血圧がかなり抑へられ今朝は112/83であつた。二月に放送の「ブラタモリ」新宿(前編)見る。京王電鉄のビルが何故、追分にあるのか、京王電鉄の幻の驛(舊・初台)などタモリ氏に負けず劣らず即答できるのはアタシがジュク通なのか年をとつただけなのか。
▼東京驛の驛舎復原について。間もなく竣工当時の原型への工事終はる由。その復原をば良しとするか戦争で壊れされたまゝの姿を維持するべきか、の議論もあり畏友村上湛君がこれにいて日記に書いてゐるが(こちら)アタシが気になるのは「なぜいまこの時期になのか」といふこと。復原といへば小泉三世が日本橋の上に架かる高速道路を地下化して日本橋の景観を復原といふ案をば提唱。莫大な予算をば要し実現に至つてをらぬが個人的には東京驛より日本橋の醜悪さこそ、どうにかしてほしい。東京驛は戦争のあとの安普請による応急処置の姿残すことは戦争の記憶とも関係あり復原反対も一つ理があるが(また焼失時の姿の復原といふ平井聖の大胆な案(こちら)も興味深い)、日本橋の場合、あの高速道路を残すことで「昭和の戦後高度経済成長」をば記憶に留める意義もなく(これも「あり」か?)、日本橋に限らず東京の首都高こそ本当にどうにかしてほしいと思ふが、その醜悪なる迷走路はそのまゝで東京驛優先。結局、いま必要とされるのは(陳腐ながら)帝国の威厳の復興。その象徴としての東京驛。各地からの新幹線が全てこの驛に向かつて来る、まるで時代の感覚とは逆の一点集中主義感覚は、中国全土から北京往き列車を走らす中国を嗤へないどころか、北京が首都の驛を分散化するのに対して東京驛一点集中主義を採擇する、この発想。その意義に比べれば、日本橋が生き返り、銀座の水路復活など二の次か。それでも東京驛だけ帝国主義的に復活させたところで周囲の、さらに八重洲口再開発で高層ビルに埋もれた東京驛にどれほど帝国的な視覚効果があるのかしら、疑問。19世紀末から20世紀初頭にかけての帝国の首都は、例えば伯林であるとか、東京でも戦前に震災後の都市計画では東京驛から日比谷、霞ヶ関、国会議事堂にかけての一帯でそられらしきものはあつたが、今の東京の無節操さでは東京驛だけその当時の復活をしても何ら帝国的威厳になりもせぬ気がするが。