富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

十月卅一日(金)晴。十月末日にてHalloweenなり。毎年同じことばかり繰り返し述べて恐縮だが10月31日の夜に行われる古代ケルト人のサムハイン Samhain 祭が起源と謂れ死の神サムハイン賛え新しい年と冬を迎える祭り。この日の夜には死者の魂が家に帰ると信じら基督教の伝播にともないこの節分基督教にとりこまれ諸聖人の祝日である万聖節(11月1日)の前夜として位置づけられる。hallow とはアングロ・サクソン語で〈聖徒 saint〉を意味し“All Hallows Even”(万聖節前夜祭)詰って〈Halloween〉となる。今日に致るに「米国の子どもの祭り」として普及、この夜のため大きなカボチャをくり抜き,目鼻口をつけた提灯 作り窓際に飾り学校では仮装パーティなどが開かれるが、夜になると怪物、魔女、海賊などに仮装した子どもたちが隣近所の家々を回って“Trick or treat!”「ごちそうしないと,いたずらするぞ 」と言いながらチョコレートやキャンディをせびってゆく、と(以上、平凡社世界大百科より)。なぜこの祭りが誰もその意味すら理解できぬまま(という意味では聖誕祭のほうがまだ明確か)世界中に流布されたのか、当然米国の<文化>の帝国主義だが「ごちそうしないと,いたずらするぞ 」ってまさに米国がアフガンやイラクでの「俺たちに利権よこさねぇとぶっ殺すぞ」と発想は同じぢゃないか。ともあれ、そもそも異教徒の基督教への取込みがハロウィンかと思えば東洋の異教徒らハロウィンの由来も知らずお化け祭と噪ぐは本来の趣旨に則るのか、とも察すも可。早晩にZ嬢と太古城。映画のまえにそれ程の空腹感もなく阿二青見湯に入る。十年ほど前からか滋養強壮のスープと香妃鶏に素朴な料理といふそれ迄にないコンセプトにて開業し広まって今日に至る阿二青見湯ながら何処にでもあるが機会なく余もZ嬢も考えてみれば食すのは初めて。確かに立派なスープ供す。太古城から湾岸沿いに出て散歩して香港電影資料館。『緑茶』(02年北京北大華億影視文化)見る。監督と脚本が張元、主人公が姜文と趙薇ではかなり期待するが都市の男女という設定で生活臭さも仕事も家も一切見せずただ都会の洒落たバーだのカフェでの会話劇に徹するがそればかりが先行してしまい今ひとつ内容がピンと来ず。次の映画まで時間ありセブンイレブンでアイス購って舐めつつ鯉景湾の湾外沿いに迎えばハロウィンにて妖怪だの魔女、ドラキュラだのに変装した大人子ども多く鯉景湾のレストラン街も店をハロウィンでお化け屋敷風に飾り店員も奇っ怪な化粧施し客も亦た変装者多し。いったい何でこんなことになるのか全く理解できず。電影資料館に戻り『天上的恋人』(監督は蒋欽民、02年北京紫禁城影業出品)見る。『藍宇』などで目立った今の中国代表する青年俳優・劉火華が主人公。広西省の山中の仙人住うが如き山村舞台に盲の父親と聾の息子、偶然迷いこんだ唖の少女を中心にしたムーミン谷の如きほのぼのとした物語。都会から流れ着きし百貨店のアドバルーンにて物語始まるが、まさか最後にあのような演出で使われようとは……。観衆も苦笑抑えられず。単純な疑問としてアドバルーンなど数日でガスが抜けて萎むのは子どもでも理解できる常識。それが数ヶ月だかにわたりこの山村の家で空に浮いているだけでも不思議なのに最後にあれぢゃねぇ。劉火華、純朴な田舎の青年役ばかり。帰宅するとフランスよりの封書あり。開封せばPMU(Pari Mutuel Urbain)競馬協会よりEuro61.0の小切手。今月5日凱旋門賞当日の最終レースで知古の騎手Eric Legrix君の30数倍での一着での複勝馬券の配当金。小切手に至る筋は今月六日の日剰に記載あり。一ヶ月以内にこうして小切手送付とは有難い限り。
▼先日半ば冗談で「司法は産業廃棄物以下などと言われぬよう」と書いたが多摩のD君より先週の東電OL殺人事件での、「疑わしきは被告人の利益」というわが国刑事裁判の大原則を否定する、最高ならぬ「最低」裁判所の驚愕の判決知らされる。刑法は罪人の人権を守るためにある、といふ羽仁五郎先生の言葉など忘却の彼方、疑惑わしきは罰す判決。裁判は実は被告と原告の裁きに非ず「社会への見せしめ」なわけで、今回の事件ではネパール籍の容疑者を「疑う」材料はあったとしても犯行を立証する証拠なし、それでも有罪とは、結局、この裁判で何が社会に伝えられたかといへばネパール人被告無期確定で日本にうじゃうじゃいる外国籍「市民」に対して「貴様ら、デカい面して勝手なことやってるが日本の官憲を甘く見るな」といふこと。今回逆転有罪の2審判決を支持し被告無期確定させた最低裁の裁判長は藤田宙靖君。東北大の法学部元教授で橋本政権?時に国立大学独立行政法人化に関する首相の諮問委員会の座長になったあたりで「変節」なのか「本領発揮」なのかか急に権力に食い込み当時は東大総長はじめ各大学の学長が皆「独立行政法人化絶対反対」のなか今日へのの流れを作ったのがの藤田座長の答申だった、と。で殊勳、最高裁判事にまで出世の結果、こういった判決に寄与。呆れるほど天晴れ。元来、行政法が専門、どうして今回のよな複雑な刑事事件の判決に殆ど素人で関与できるのか、とD君。藤田君に可能なのは2審判決が「法理に基づいて適正かどうかという判断」で、それであれば行政法学者とて専門家としての能力を発揮できたはず、と。
▼築地のH君は日本の司法について、中学校で裁判とは何か、民主主義とはなにか、を考える絶好の教科書としてヘンリーフォンダの「12人の怒れる男」見せてレポート書かすべき、と。日本で陪審員制度が成立するかどうか贊否岐れるが否定的な意見は「権力に迎合する国民性」に論據。だが専門の判事ですらじゅうぶんに権力に迎合するのが風潮なら、陪審員制になることで国民が民主主義や人権とは何かと学べるだけ権力に迎合する裁判官に任せるよか陪審員制のほうがマシではないか、と。全く。
▼「あれ」の妄言について。先日のテロ発言では都庁に来た意見ではテロ肯定が賛成多数だった、とD君。それほど「あれ」の支持ばかりか、といふと元東京都民として弁明すれば良識ある都民は「あれに説法」の馬鹿馬鹿しさ痛感しており抗議の電話など都庁にせず。逆に「石原、よく言った!」だけが電話。だがD君も馬鹿馬鹿しいし構いきれないとは思いつつも「日本国民としての誇り」にかけてこのような人物を許さないという意志を示さねばならぬのでは、と。そこまで思うは例えば『朝鮮日報』の29日の社説「「石原妄言」日本国民の代弁か」を読んだから。
日本の石原慎太郎東京都知事が再び、「韓日併合は彼ら(朝鮮人)の総意で日本を選んだ。植民地主義といっても、もっとも進んでいて人間的だった」との妄言を行った。彼の発言を、ただ「口さえ開けば日本の侵略の歴史を美化し、韓国をはじめとする隣国とその国民を冒涜する大衆煽動術で人気を集めてきた極右政治家の間抜けな発言」と片付けてしまえばそれまでかもしれない。しかしここまで来ると、われわれは日本の国民に真剣に問わざるを得ない。「石原都知事の妄言を日本国民の発言として受け止めてもいいのか」と。彼が妄言を吐けば吐くほど人気が上昇する奇怪な現象を、韓国国民は到底理解できないためだ。石原都知事は、韓国人をはじめとする外国人不法滞在者が東京を無法地帯に仕立て上げ、有事の際は暴動を起こしかねないとか、中国人の凶悪犯罪は民族的DNAによるもので、中国を懲らしめるべき、などの極言を何のためらいもなく叫んできた。にもかかわらず、彼の政治生命は終止符を打つどころか、今年4月、任期4年の東京都知事選挙で圧倒的支持を得て再選に成功した。その上、彼の人気は日本の政治家の中でも常にトップクラスで、直接選挙制で日本の首相を選ぶ場合、すでに彼は当選しているというのが世論調査の結果だ。日本版のヒットラーと呼ぶに値する政治家が最高の人気を集めている国は、世界のどこを探しても日本だけだろう。日本国民は石原都知事を通し、一体どんなメッセージをアジア諸国に伝えようというのか。過去の侵略の歴史を消し去ることで、新たな侵略の可能性を開拓したい欲求を、石原都知事が代弁していると受け止めてもいいというのか。そうでなければ、日本国民はもう「石原シンドローム」を整理しなければならない。日本は、石原都知事のような政治家が幅を利かすよう放置しておく限り、アジア国家との和合は諦めざるを得ず、世界の指導国はおろか、「異質国家」として空回りするほかないだろう。
と。ちなみに朝鮮日報の記事「「韓日合併朝鮮人の選択」石原都知事がまた妄言」はこちら。中央日報東亜日報など。
▼香港一の富豪李嘉誠の市場独占甚だしければ嘗ては一大で巨万の富築き香港経済の象徴と譽れ高きも最近は経営手法に傲慢さと映る綻びも少なからず。一例挙げれば李氏の長江実業独占にて開発するHung Homの住宅地は公共交通機関バスに他依る不便あり長実は居住者優待と尖沙咀までの自社運営によるシャトルバス提供開始。運賃は従来のミニバスより安く居民には有難いがこれまで付近住民の足となるべく運賃値上げも押さえ懸命に努力続けた地元のミニバス経営の零細企業はこのシャトルバス運行開始で営業などあがったり。ミニバス会社の経営者新聞に李嘉誠先生宛の意見広告掲載。今日もまた別の李嘉誠宛の広告あり。投訴するは香港新聞販売協会。今回は同じく李氏の所有する戸数数十万の集団住宅地にて居住者サービスと特価にて新聞販売。新聞料金は毎月の住宅管理費とともに徴収され新聞は階下の管理人室で毎朝受け取る。通常HK$6の新聞がHK$4.7と住民には有難いが、これに対抗しようとしたら新聞販売店も同等の値下げに踏み切らねばならずHK$4.3の卸値にては薄利甚だしく死活問題、と。結局、巨大化した企業資本が独占により良質なサービス提供するようでいて実は安定した市場社会を崩壊させる社会悪と化す実例なり。
▼築地のH君より。衆議院東京1区立候補者の又吉光雄氏。総選挙後発足する新政権の望ましい枠組みは「又吉イエス中心」(笑)。憲法改正について「改正するとすれば最も重要な分野」は「天皇制廃止」と共産党ですら今は主張せぬ貴重なご意見。このところめっきり減ったこういう香ばしい候補者は大事にしないと、とH君。嘗て選挙に欠かせなかった彩、東郷健先生をはじめとして「ニシンと食べると頭がよくなる」三井理峯、日本UFO党総裁・森脇十九男、ユダヤの陰謀・ドラゴン将軍大田龍といいた常連さんも今は何処。ひょっとして「選挙」というイベントが活力が低下してこれらのトンデモさんたちを刺激する魅力を失ってきたのではないか?とH君。まさに日本の民主主義の危機。
シャンソン歌手でフランスの人口700人のシュル・マルヌ村の村長も役るイヴ・デュテイユ氏長野県訪れ田中康夫知事と会見。住民自治や教育などについて語る(朝日)。康夫ちゃん曰くフランス料理、ドイツの車、イタリアの服飾の外見ばかりで身を以て欧州の弁証法的哲学や自治を理解せぬのが日本、と。少なくとも明治の欧化は泰西の知識学ぶ者にその文化付随し生活に滲透したわけで、而も鴎外荷風に見られるようにその欧化の下地にしっかりとした江戸の教養と唐文の素養まであり、それ故に単なる表面上の欧化に了らず。
▼中国の初有人宇宙飛行遂げた楊某なる宇宙飛行士本日来港。中国全土を隅無く巡回すべき国民的英雄がこの早い時期にまず港澳訪問、しかも香港には六日滞在といふことの意味。香港にて市民はこの楊某の講演会の入場券取得に長蛇の列、香港科学館にての短期の展示会は百万に及ぶ入場者来襲予測され通常の開館時間にては対処しきれず夜通しの開館とか。嗚呼、祖国の科学技術の偉大なる進歩。経済成長。次は北京オリムピック。本来勝手極まる個人が民族に統合され民族が統合され国民化されるためのプロパガンダ。じつは世の中は欧州見ればわかる通り共産主義に象徴される国民化体制瓦解し民族主義再び台頭するがそれも欧州連合なる国家体制越えた政治体の下での独仏に見られる個人主義へと還元されてゆく。それに対し半世紀遅れた中国はいまだ昭和30年代の如き国民化、それはそれで楽しむべきか。最も深刻なるは日本。欧米に並ぶとも送れず経済成長遂げ本来なら欧州の如くアジアに於ける跨国家の政治体設立に動くべきところ寧ろ矮小なる国家主義民族主義に陥り、最早、亜太地区にて信頼もなし。ただ自動車と家電製品、アニメ供給するだけの工場と成り果てたり……といふか戦後といふものぢたいそれだけだったのかも。巧妙なるロボットは製作可ながら自律した個人の育成はできぬ、と。
▼中国の初有人宇宙飛行といへば昨日の蘋果日報にて陶傑氏、中国の漢字文化の衰退歎く。宇宙意味するSpaceを中国政府は「空間」と譯し宇宙船をば「航天機」とす。劣訳。翻訳の基本原則はAmbiguity即ち「曖昧さ」避けること。Spaceは宇宙空間から抽斗の片隅の余地までの意味あり。航天機も飛行機か宇宙船かすら不明確。これらは全て共産党の「新中国」の新言語(Newspeak)にてジョージ=オーウェル1984年』にて描いた独裁国家の反知性。これは「政治」「民主」「共産党」といった日本での漢字訳の素晴らしさに及びもせず。Economicsをば治国の理想たる「経邦済世」より「経済」とし利潤並びに貨幣に係る理財之道とした、その名訳。本来自らの漢語を日本から輸入、この日本の先見が尖閣列島をば早くからその価値見入いだし占拠させたか、と陶傑氏。(この日本への賛辞、幕末から明治期の、であって当時の漢語の素養溢れる兆民諭吉の如き先達ゆえの翻訳ゆえ今日の素養もなき日本人がその評価を「だから日本は優秀でシナは劣る」などと石原某の如く誇るべからず……富柏村註) 陶傑氏曰く、本来、漢語の言葉の深さは譯すのも難しきもの。例えば「腹有詩書氣自華」の七文字の、この「氣自華」を英訳すれば look proud だの look dignified となるが、それぢゃ「腹ニ詩書有ラバ気モ自ラ華(はなや)グ」(富柏村読み下し)と、知性教養有らばの心の満悦を表すこれが“He who reads a lot looks very proud”「沢山本を読んだ人は満足しています」ではあんまり。中国人として中国を愛しむなら中国語文汚す江沢民やCoquinteauの中国政府とは一線を画すべき。宇宙飛行士の楊某来港にあたり香港の学生は中国語文への愛国的立場を維持して「航天」を「宇宙飛行」、「空間」を「太空」と言うべき、と。
▼陶傑氏は今日の隨筆でも、不動産の紛争で政府相手に訴訟おこした原告についた弁護士が提出した原告側資料が「国家機密機密漏洩」に当たるとして三年の禁固刑となった(怖ーっ)こと取上げ、中世の欧州すら宗教上の異端分子裁判とて被告に代わり教義に反する邪説説く=惡魔の化身としての弁明を行い悪魔に罪きせることで被告を免罪とするための役割の悪魔の代理人(Devil's Advocate)が存在し、この謂わば当時の弁護士に当たるこの職は教会側から給与が払われており、つまり中国にはこの制度の観念すら欠ける、と。中国では弁護士とて党と国家の保全に寄与する職か。公費の法廷弁護士すら存在できぬのだから公務員とて国家から給与もらっていては中立ができぬ、という感覚もあり。英国のBBCが公務員でありながら政府非難の報道が可能ということが中国では通じず。司法が国家権力のためにある事実で思い出すのが登β小平が仕掛けた反政府活動家・魏京生への懲役15年の判決。当時の国家主席華国鋒は欧州歴訪中でこの人権蹂躙の判決に西側メディアは華国鋒にこれについて容赦なくコメント求め歴訪も台無し。司法から外交まで権力闘争の材料となるのが中国。現代化だの国際基準への上昇だのと表面的には伸展遂げているかのようだが現実には旧態依然とした悪慣蔓延る、と。