富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

二月九日(日)濃霧。朝から気温上がれば霧いちだんとひどくなり窓からの眺めは白濁一色。昨日と同じ く午後になり晴れる。昼まえからジムでウェイト1時間、拳闘もどき1時間。尖沙咀の北京道見下ろしHMWに出入りする客眺めつつランニング1時間。スタァ フェリーで中環に渡り久しぶりにHollywood RdのCollectablesでLPレコオド漁ろうと思ったら雑居ビルほとんど店舗なく取壊しか。XTC on Iceにて生姜人参とマンゴーのジェラート食す。三聯書店の本店にて本漁るが所望の書籍見つからず。賈平凹の小説いくつか見るがやはり『廃都』を読んでし まふとどうも他読もうという気概も出ず。白先勇の『臺北人』『寂寞的十七歳』の二冊購ふ。『臺北人』は10年以上前に当時の朝日新聞香港支局長のT氏台北 に取材から戻った折に台湾で評判になっていると紹介されたが読む機会ないまま今日に至る。この二冊は勿論、なんといっても20世紀の小説として重要な『薛 子』すらまだ日本語になっていない。余の知るところ、この白先勇の作品では、90年に徳間文庫より中村ふじゑ訳でこの『寂しき十七歳』を含む短編集『最後 の貴族』が出版されているが絶版、91年に宝島社より『バナナボート―台湾文学への招待』という小説集に『永遠の輝き』なる短編一つが訳出されこれも絶版(この90年初までの宝島社は面白かった)、現在は国書刊行会の「新しい台湾の文学2」とする『台北ストーリー』に この『臺北人』に納められた一扁である『金大班的最後一夜』が『最後の夜』という邦題で訳されているのみ(山口守訳)。 この国書刊行会のこの「新しい台湾の文学」シリーズで『薛子』(『罪の子』という邦題か)で刊行される予 告もあったが現在未だ上梓されておらず残念。夕方家に戻る途中『臺北人』の緒作『永遠的尹雪艶』読む。支那文学にとって魯迅以来の短編の書き手であること は間違いない。帰宅途中に材料購い拙宅の玄関扉の隙間止め。Z嬢、三月にピアノ弾くお座敷かかりリスト編曲でグールド先生弾くベートーベンの『運命』ピア ノ版、これがいいね、といふことになったが(結局、このリスト編曲のピアノスコアは香港で見つからず「リストぢゃない」 スコアをとにかく入手)さういへば『運命』の原曲、CDもなきことに気づきいくつか聞きたい部分あり、とCD購いに銅鑼湾まで出向く、とい ふのでそれぢゃ何となく四川料理食したく蜀家菜にでも行きませふということになったが北角の七姉妹道にてミニバス乗換えようとして「さういへばあそこに」 といぜんから気になっていた小さな料理屋あり東北風味と誘う老燕京といふ店。ちょっと此処を試してみようといふことになり辛泡菜、白菜水餃、坦々麺と東北 冷麺。餃子は格別かなり美味く、坦々麺は麺といふより東北の手打ちうどん、ちょっと甘めだが辛みもじんわりと効いて好し。冷麺は甘すぎて落第。いずれにせ よ北角の裏道でひっそりと営むとおもえばじゅうぶん食すに値する店。老燕京とは何処かで聞いた名と思えば北京の老舗の料理屋にて、この北角の小厨の主厨は 曾て北京のその老燕京で働いた経験あり香港に参り故郷の東北の味で店開き、とか。銅鑼湾のHMW。ベートーベンの運命なら朝比奈隆先生の振る大阪フィルか などと軽口叩いていたらマジに朝比奈先生のベ交響曲がずらりと並んでいて、香港でいったい誰が購ふのか、と疑る。で、結局、ゆっくりの演奏で確かめ聴きし たいといふZ嬢の所望でFurtwanglerの1954年のウィーンフィルで運命と未完成の一枚。それに全く知らなかったがMaria Joao Piresなるピアノ奏者で同じくベートーベンのピアノソナタ13、14、30番。帰宅して聴いたがこのPiresなる奏者、好きになった。それと Rubinstein先生の1957年マンハッタンセンターでの録音でショパンマズルカ即興曲1〜4番の三枚CD購ふ。帰宅して Furtwanglerの運命と未完成聴きながら柚子湯につかり白先勇の『臺北人』数編読む。『台北ストーリー』に掲載されている『金大班の最後の夜』山 口守訳を少し見たが「台北市の繁華街、西門町一体にネオンが灯る頃」と物語が始まるのだからナイトクラブの支配人の台詞「Nimen 一餐飯下来、天都快亮la」が「食事に出たっきりでどうしたんだ。もう夜が明けるじゃないか」とされているが、この訳じゃ読者「宵の口に食事に出かけ明け 方にクラブに戻った」と誤解招く。「食事に出たっきりどうしたんだ。全く……夜が明けちまうよ」と実はまだまだ宵の口、ただ支配人が気を揉んでいる、とい うニュアンス。ちょっとしたことだが気になる不適切な訳。白先勇、それぢゃどういう作家かといふと、橋本治的に強引に表現してしまえば「戦争はさんだ世代 で国家というものを勝手に、そう全く勝手になんだけど、背負いこんじゃって、そういう意味では三島由紀夫と同じなのだけど、決定的にどこが違うか、といえ ば三島は負い目があってマジに背負うふうを演じた、のに対して、白先勇の場合はもう勝手な開き直り。お父さんが国民党の幹部軍人で本当なら三島的に背負い こまなかればならないような境遇だったのに「お父様ごめんなさい、僕にはそんなことできませんっ!」ってレース編み始めちゃったみたいな、でもレース編み が上手かったからそれで評価されてしまったのだけど……」って感じか。
▼ところで前述した90年に徳間文庫で白先勇を訳している……それにしてもこの初訳とて遅すぎる、白先勇が 台湾文学に躍り出たのは60年代なのだ!、この翻訳した中村ふじゑなる方、2000年に梨の木舎より『オビンの伝言―タイヤルの森をゆるがせた台湾・霧社 事件』なる著書を上梓。このオビンなる女性は霧社事件の当時を知る長老で、そのオビン婆と知古のこの中村さんがオビン婆の語る霧社事件タイヤル族のこと を書いているそうな。貴重な伝承。
▼『週刊読書人』で藤本敏夫の遺作となった『農的幸福論』加藤登紀子編(家 の光協会)の書評といふか追悼を鈴木邦男が書いているのを読み、藤本敏夫が亡くなった時はあまりピンとこなかったがこの鈴木邦男の文章を読 んでいたら涙腺緩む。昨年七月に亡くなった時に「加藤登紀子の夫」と弔報にあったのが悔しいと鈴木は藤本が三派全学連委員長として佐世保だの防衛庁突入を 指揮していた当時もし日本に革命が起きていたら藤本は日本共和国の初代大統領になっていたほどの男だと讚える。加藤登紀子の藤本は「高倉健を目指しなが ら、けっきょく明石家さんま的になってしまうような(笑)とても楽しい人でした」という表現も面白いが高 倉健というのはどうして戦後日本のここまで偶像となったのか、それは高倉健といふ役者自身にとって高倉健という像ぢたいが理想型の幻想にすぎないのだから 当時の世代のみんなが高倉健に憧れても誰も現実に高倉健になれないのは当然なのだが(日本ぢゅうの男がみんな高倉健に なったら「大変なこと」になってしまふよ)、閑話休題この「かつての敵」秦野章(元警視総監)ま でが選挙応援してしまうこのスケールの大きな憂国の士としての藤本氏は鈴木邦男曰く「余りにも先を急ぎすぎ」「愚かな国民には理解されないまま「希望」は 消えた」と。
▼↑これを綴っていた思ったが、鈴木邦男にせよ秦野章にせよ、他には剃刀後藤田であるとか曾ての保守、右翼 といふのは立派で「あった」とつくづく痛感。今の世代でこの保守右翼の流れの汲むのは亀井静香チャンくらいか。自民党の国防キッズ一派であるとか石原、小 林よしのりなど、理詰めで話などできない愚連隊の如し。
▼Size調教師、2001年9月15日の香港での初戦から523戦目にて100勝達成。これまでのビアン コン調教師の10年以上前の614勝を大きく上回る偉業達成。ただただ敬服。