甲辰年九月廿六日。気温摂氏153/19.7度。曇時々雨(5.5mm)。家人と常磐線特急で上野。銀座線で浅草。浅草地下商店街が朝だつたこともあらうが随分ときれいになつてゐた。朝九時で開いてゐるのは立喰ひのラーメン屋だけ。
東武特急は昭和末に家人と日光に遊んだとき「けごん」に乗つて以来。当時はまだ昭和35年に導入された東武1720系電車(ヰキペディア)が活躍してゐた。今回は特急リバティ会津で東武鬼怒川線から野岩鉄道(ヰキ)*1に入り会津鉄道(旧国鉄会津線)の終点の会津田島まで往き会津若松までの旅程。東武→野岩→会津鉄道からJRに跨る4線連絡乗車券は窓口で現金での扱ひのみ。東武浅草駅の狭い正面口にあるインバウンド旅行窓口は長蛇の列。
東武浅草駅はすぐ隅田川を渡るため半径100mのカーブがホームの線路まで食い込む。ホームの先端に立つと高所と狭所恐怖症のアタシは眩暈するほど。とても落ち着いてリバティの東武500系の列車の先頭部の写真も撮つてゐられない。
2017年に導入されたリバティ型の東武500系は座席のピッチや幅も余裕あり快適そのもの。多機能トイレもとても充実した設備。下今市駅で日光に向かふリバティけごん号との切り離し。ここから先の鬼怒川線もアタシは初めて。
生憎の雨模様で入場者もかなり少ないであらう東武ワールドスクエア駅を過ぎて鬼怒川温泉へ。駅前はそれなりに賑はひを見せてゐたが列車が北東に向け現駅を発つと線路際に昭和のころの観光ホテルが廃業して本当に廃墟のやうに立ち並んでゐる。これを車窓から眺めてゐると、まるで廃墟を巡るアトラクションのやう。車内で元気な高齢者夫婦たちが「昔この鬼怒川温泉ホテル来たよなぁ」とか感慨に耽りながら今の荒廃ぶりに啞然。家人も両親の新婚旅行はこゝだつた、と。昭和の戦後の新婚旅行、社員旅行に町内会……どれほどの数の人たちが温泉旅行を楽しんだことか。
進む劣化と進まぬ解体、消えた経営者…鬼怒川温泉“廃墟群”はなぜ生まれてしまったのか | 文春オンライン
朝9時半に浅草を出た特急の終点会津田島着は12時半過ぎ。鬼怒川温泉を出たところで早めのお昼。浅草で駅弁も期待できなかつたので上野駅のエキュートで買ひ求めたお弁当を開く。細切りの昆布と生姜、筍煮、蒲鉾、玉子焼きの順で、それを肴にお酒一合をいたゞく。
そしてお酒はお終ひで(その状況が画像右)焼き鮪、鶏唐揚げとシウマイでご飯とする。最後に口直しで小梅と杏子。いつもこの食べ方、個人的にはあれこれチマ/\と混ぜて食べるのがイヤなのだが鉄道の車中で隣席の客に、このヘンな食べ方をチラ見されたことも。
野岩鉄道は元々は大正11年に栃木県の今市から福島県の田島までの路線が計画され昭和41年になつて漸く着工したものゝ国鉄経営悪化で工事中断。昭和54年に政府が栃木、福島両県に第三セクター鉄道での運営打診され昭和56年に会社設立され翌年工事再開で昭和61年に開通。1990年に会津鉄道の会津田島まで電化され東武線からの乗り入れが充実するなかで浅草〜会津線会津田島までの特急リバティ会津の運転開始は2017年のこと。会津田島から浅草まで3時間余もかゝるが浅草から東京の私鉄としては初めて関東以遠まで直通運転は画期的。
ずつと鬼怒川に沿つて緩やかに標高をあげてきた特急列車が標高は700m超のはず、そこで少し速度を増したと思つたら県境で山王トンネルの中でだろうか下りに転じたやう。浅草から3時間余、会津田島の駅は浅草行きの特急、野岩鉄道と会津鉄道のターミナルで賑やかなもの。今日のリバティも満席。駅舎の売店は祖母から孫娘まで三代?で大忙し。もう会津なので酒が美味い。南会津町産の「会津」と「花泉」のコップ酒買ひ求める。
野岩鉄道開通前の東武鬼怒川線(新藤原まで)と会津滝ノ原初の会津線。これは昭和53年10月の5310ダイヤ大改正の時刻表より。当時は会津田島と仙台を結ぶ急行が走つてゐた。
会津鉄道沿線は風光明媚。ワンマン運転なのに運転手は周辺ガイドの車内アナウンスまで忙しい。そのなかで湯野上駅手前で「団体の客様が乗車されますのでお席に荷物置かず譲り合ひをよろしくお願ひします」。湯野上で乗車はJTBのツアーで30人ほど。2両編成の車内はかなりの混雑。ご一行は芦ノ牧温泉で下車。大川のダム湖などあるため観光バスでの移動中にこの区間だけ鉄道に乗車となる。
会津田島の駅には地酒試飲の自販機あり会津若松駅には名物「馬刺し」の自販機まであつた。
会津鉄道は区間は西若松駅まで。そこからJR只見線に乗り入れて終着の会津若松に向かふ。会津若松の一つ手前、七日町駅で下りた方が旧ご城下の中心地からはだいぶ離れた場所にある会津若松駅よかだいぶ便利……なのだが明日の乗車券を作るのに終着の会津若松駅へ。乗車券の手配済ませて宿(ホテルニューパレス)まで大町通りを1.5kmほど歩く。
江戸時代には二代将軍秀忠第四子の保科正之を藩祖とする会津藩で会津松平家の城下町として栄え明治からも東北の内陸交通、流通の要所で豪商がいくつもあつた商都。戦争では空襲を免れたことで古い商家がいつくも立ち並んでゐる。日暮前に七日町通りあたりを少しだけ散策。
晩は会津の酒と桜刺しをお目当てに街なかからは少し離れた馬場町の「もっきり」に。
会津の銘酒がずらりと並ぶが普通酒は榮川で、それでもう十分。薄味でかなり出汁の美味いおでんをずいぶんといたゞく。啤酒中瓶1本のあとお酒を燗酒で六合。
こちらのお店はおでんがメインなのだけれど酒肴も数多い上に2代目?の若旦那が鉄板焼きの修行もされてゐたさうで他のお客さんの注文だけど目の前の鉄板で手際よく調理される広島焼きがとても美味しさう。
本当は一寸伺つてみたかつたバーもあつたのだけれどお酒も昼間から七合くらゐかしら随分といたゞいたし宿に戻ることに。それにしても会津若松は人口(12万人弱)だと思ふと飲食店の数が繁華街に少なからず料亭からバー、スナックまで夜、酒をよく飲む都市であることがよくわかる。
それにしても会津のお城の立派な石垣の史跡のすぐ先にギャルズバーだとかキャバクラの集合ビルがまるで石垣のやうに建つてゐるのが何ともおかしな光景。
宿に戻る途中、常陽銀行の支店があつた。水戸を本店にする常陽銀行の支店のなかで大阪支店を除くと水府から最も遠方なのではないかしら。昔の流通では会津若松と水戸が繋がつてゐたのだ。