甲辰年六月廿六日。気温摂氏24.5/32.9度。曇。この気温で少し涼しいと思ふのは如何にかしてゐる。昔は夜の気温が25度超を熱帯夜と呼んでゐたが今では寝室の気温が30度でもアタシは寝てゐるときの冷房を厭ふので窓を開けたまゝ扇風機を弱めに回してタオルケットをかけて寝てゐても大汗すらかゝなくなつた。動物といふのはまことに環境にそれなりに適合してゆくものである。
昨日読んだ藤井淑禎『乱歩とモダン東京 - 通俗長編の戦略と方法』(筑摩選書)のなかで明智小五郎が事務所兼住宅としてゐた飯田橋界隈のホテルがどこか、とか何故にこのルートが犯人のアリバイに用ゐられたのかとか話が進むなかで書中当時の貴重な写真を多く引用してゐるのが博文堂から昭和8年に出版された『大東京寫眞案内』。当時の東京の写真を集めた、かなり貴重で好事家には必須の写真本なのだがこれは知らなかつた。それの復刻版が出てゐたのでさっそく拝見する。大東京写真案内 博文館版復刻がそれ。
今ならドローンを飛ばせば空撮など容易だが昭和初期に航空機を飛ばして、よくぞこれだけの空撮を試みたもの。数寄屋橋のこれなど当時の写真機とフィルムの水準で飛行中の航空機からよくぞこれだけ鮮明な空撮ができたものとあばらかべっそん。泰明小学校など拡大鏡を使へば校舎外壁の装飾まで伺へる。外濠があつて今では外堀通りといはれるのか、それを「電車通り」といふのはアタシの世代では久ヶ原T君くらゐ。この復刻版の付録の栞で、その昭和8年の発刊に小僧として携はつた高森栄次といふ編集者(雑誌『新青年』の最後の編集長)がこの発刊に至つた経緯を書いてゐるのだが、これらの空撮は元々は博文館ではなく「大」東京を空から俯瞰して撮影した鳥瞰写真地図を作成しようといふ壮大な計画だつたのださう。東京は現在は特別区23区だが明治22年に東京市として市政が敷かれた当時は小石川、牛込、赤坂、麻布、芝、麹町、京橋、日本橋、神田、本郷、四谷、下谷、浅草、本所と深川の15区制で、それが昭和7年に隣接の5郡82町村を合併して新しく淀橋、向島、城東、品川、荏原、目黒、大森、蒲田、世田谷、渋谷、中野、杉並、豊島、滝野川、王子、荒川、板橋、足立、葛飾と江戸川の20区を加へ35区となり、未だ東京都ではなく東京府だつたが、この35区を「大東京」と呼んだのださう。それで当時その35区を35枚の鳥瞰写真地図にするといふ計画。実際にかなりの費用をかけ撮影のあと印刷にまで進んだが計画が頓挫して博文館にこれが持ち込まれたのだといふ。だが昭和8年になると日本軍はもはや中国への侵攻も勢ひを増して仮想敵国からの空襲を前提とした第1回の関東地方防空第演習が行はれたほど*1。そこで敵軍に利するやうな航空写真地図の発行など軍部が許すはずもなく、この出版計画は二度目の頓挫となるのだがこの空撮で其処彼処と撮影した航空写真も少なからず「防空に障害なし」と認められた写真と東京35区内の名所旧跡や多摩など新しく加へられた地意識の写真も合はせて一冊の大東京の写真案内本を出す計画に変はり、それが『大東京寫眞案内』として上梓されたもの。高森栄次はその地上での写真撮影にボーヤとして機材を担ぎ奔走したのだといふ。秋葉原にあつた神田市場だとか本所の被服廠跡震災記念堂の空襲で焼ける前の空撮だとか畑のなかの江戸川浄水場だとかまことに貴重な写真を眺める。
この本は写真集なのだが写真に添へられたキャプションが、これがまた面白い。銀座通りの写真では服部時計店、銀座三越や松屋デパートなどの空撮に「その他、汚れて穢く黒くちつぽけな、銀座裏の寄生蟲カフエの屋根、屋根、屋根」だとか、神保町など「こゝも亦、不断に雑踏する学生オンパレードの街である」なんて書店街を歩く学生すら良くは言はない。武蔵小山の小山銀座は「銀座の呼称はあるが新宿の匂ひに浅草の味を織込み、ネオンサインと悪どい看板とジャズの狂噪と通りの雑音が交錯するところ」なんてなか/\の筆致である。