富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

石川九楊「新省庁「看板」文字探訪記」

辰年五月十四日。気温摂氏16.9/28.3度。昨日の大雨の雨雲失せての快晴。今月はとらやで嘉祥蒸羊羹の発売あり。通常のとらやの羊羹は半年くらゐは保存可能で防災食料にとらやのミニ羊羹を!なんて宣伝までされてゐるが蒸羊羹の賞味期限は短く今月末まで。それにしても蒸羊羹にこれほど風味があるのかと驚かされるほど美味。

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江戸時代に六月十六日は菓子を食べ厄除招福願ふ「嘉祥」といふ行事あり、それに肖る羊羹なのださう。まだ陰暦では五月で一ヶ月も前なのだが。観音様の誕生日で、おそらく夏バテ防止のやうな菓子食ひだつたのでせう。とらやの羊羹の箱はその意匠も美しく捨てるに勿体ないが箱のまゝ保管もできないし箱を崩しても箱の厚紙は切り抜きにしておくにも難儀。そこで厚紙を水に浸して印刷のある薄紙と厚紙の台紙を剥離させることにした。薄紙は叮嚀に剥がしても破れてしまふのだけれどノートに貼ると、それはそれで味はひもある。

芸術新潮』2001年5月号を市立図書館から借り受けたのは、この号に石川九楊が「新省庁「看板」文字探訪記」を書いてゐたため。当時、国土交通省発足にあたり扇千景大臣の揮毫が九楊先生曰く「よくもこゝまでと驚くほかない破滅的な字」で中国人や韓国人の目もあるのだから「どうか作り直しを」と懇願してゐる(それでも今でもまだこの千景の看板が掛かつてゐる)。

字粒を揃える、まっすぐ書く、さらには一点一画の書きぶりに悩む、文字の均衡をとるなどの営みが、格言すれば、思うようにいかない自らの字に恥じ入り、何とか少しでも改善しようと工夫する国民的スタイルが、書のみならず文学、絵画、音楽、演劇、工芸、意匠、華、茶、建築、さらには日々のふるまいに至るまでの日本の美を支えてきた。

だからこそ(個人の悪筆はそれで良いが)国を代表する省庁の看板に悪筆であることを石川九楊は許すことができない。御意。

筆者(石川九楊本人)は、民衆の日々の暮らしが物心両面で活き/\と活動している社会を願い、国家や国家機関は限りなく小さくなることを理想とするが、それでも国家が存在する以上は品位と拡張を失うべきではないと考える。

役所の看板の揮毫に止まらず九楊先生は自らの政治体制の理想まで語り始める。

この看板から透けて見えるのは、省内外に広く人材を集め、的確な助言に耳を傾けるという手法を欠き、国民も諸外国も視野になく、しかも最低限の教養すら失って平然たる大臣と、内心では困ったものだと思いつつも、それを宥めることもできずに揉み手と陰湿ないじめ(いけず)に終始する官僚の姿である。

九楊先生は憤り政府と体制に対する苦言に言及。扇千景大臣の看板は「紙に書いたものを籠字でとり、なぞるように書いたもの」か?として「誤まりもなく前もって文字を配するという心構えはいいが、後で表面を糊塗するような手法は、政治家の国会答弁を聞いているような後味だった」と揮毫への揶揄から政治家への嫌悪感を露骨に語る。もはや九楊先生の書のやうな潔い爽快感である。文部科学省の看板を見れば九楊は

教育の理念を失い、小中学生にIT教育などという奇怪な政策を打ち出す、内部はばら/\そのくせ新しいもの好き──そんな(文部科学省の)内情が、三つ並んだ看板の姿(文部科学省文化庁と日本ユネスコ国内委員会の看板のこと)から彷彿する。

ときちんと教育についてのコメントで苦言をしてみせる。内閣府の看板は森喜朗によるものだが喜朗の揮毫は平凡だがまだマシな方と褒めた上で「なにしろスタイルがない」と、おそらく森喜朗本人が嫌ひなのだらう、認めるわけにはいかない。

ローマ字ではないものの丸ゴチック体の「森」と言う今風の横に長い石の表札の家(東京の私邸)に住むこの人は、ごく普通の日本人らしい日本人、庶民(そこまで九楊先生は見に行つたのか!)。話をすれば集まった聴衆の受けを狙って、ちょっとくすぐりを入れたり、自分を揶揄してもする。これは日本の仲間内の講演の常套の手法。おそらく村落共同体内の人々には気配りを欠かさず、受けが良いのだろう。神の国発言は批判されたかのごとくだが「わが国には昔からその土地/\の山や川や海などの自然の中に人間を超えるものをみるという考えがあった」と言う(森喜朗の)反論を実のところは批判できずに、マスコミは沈黙を続けている。それに「失言宰相」と伝えられているが、意外に正論を吐く。例えば株価が11,000円に暴落したときの「株価に一喜一憂する事はない」という発言は、おそらく庶民・森(喜朗)の無自覚の本心が漏れたもので、最近では共産党でも言えない秀逸な名言。株価が下がってはならないと信じているのは、一握りの投資・投機家か経済評論家くらいのもので、ほとんどの庶民には関わりない。実体経済が健全であれば、否それ以上に文化的に健全であれば、それが何より良い社会なのではないだろうか。

誠に石川九楊先生の仰る通りである。本当に良い文章を読ませていたゞいた。

この上野での石川九楊大全に絶対に行かなければいけない。

この『芸術新潮』では特集が没後20年「谷口六郎いつか見た夢」で「橋本治が選ぶ「週刊新潮」表紙絵ベスト10」を読むことができた。