富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

成田悠輔『22世紀の民主主義』

f:id:fookpaktsuen:20230505095725j:image

癸卯年三月十五日。気温摂氏10.3/27.3度。快晴。見事な五月晴れといひたいところだが旧暦ではまだ三月も半ば。五月晴れといふのは本来、梅雨の晴れ間のことださう。GWの大型連休で何もすることもなく夏物の衣服を出したり着なくなつた衣類をリサイクルに出すのにまとめたり。夏の帽子のリボンが汗もだいぶ吸つて、かなり草臥れてゐたのでリボンを外して洗つてから墨色のマーカーで塗り直して帽子に軽く糸で止めてできあがり。『銀座百点』三月号だつたかしら播磨屋さまの写真集発売でのグラビアと播磨屋夫人のインタビュー記事あり数ページずつ切り取つてあつたものをスクラップブック(大学ノート)に貼つたら美しく収まつた。それすら「さすが播磨屋ならでは」と思へてしまふ。

f:id:fookpaktsuen:20230504125150j:image

能楽タイムズ』は初秋の正式再刊まで現在は暫定版が毎月出てゐる。5月号(暫定版3号)に畏友・村上湛君の1〜4月の中継ぎの批評が掲載されてゐるのだが字数も限られるなかで表現の言葉数に制約があるなか(だから?)冴えてお見事。今年になつてアタシもそれなりの数の舞台を拝見してゐたので、この劇評を読んで舞台を思ひ返すばかり。三月の大槻文蔵・裕一の会。文蔵師〈卒都婆小町〉で「物着前「出で立たん」で打ち込んだ亀井忠雄の大鼓の閃きが千釣の一音」。万作師の狂言〈泣尼〉。嫌味に見える坊主が「万作だと人物が抽象化され「普遍的な人間心理」が泛び上がる」「演劇とは批評にほかならず、その見事な解答」。3月の国立能楽堂で観世ご宗家〈采女〉での山本東次郎の間狂言の見事さ。観世会「春の別会」での能〈摂待〉は「無駄な力を抜いて過不足なく凛とした声ひとつでドラマを貫く胆力」で、これがご宗家まだ二度目とは知らなかつた。関根家〈桃々会〉の祥丸〈海士〉と萬斎・太一郎の狂言〈武悪〉、ご宗家〈卒都婆小町〉の構成の意味。そして4月の銕仙会まで。批評で春の番組を改めて堪能。自分が見てはゐないが4月22日の大槻能楽堂での万三郎師〈西行桜〉について詞章の錯誤もあつたりだが「能を見慣れない人にこれを「天下の名演」と推せるだろうか?」と湛君は投げかける。

物語や役柄を捨象し、見る者の「ことば」に全てがゆだねられる晩年の大野一雄と同じ「舞踏」であるとすればすんなり受け容れられるだろうし、そこに能の「危うい一線」がある。これは武原はん〈雪〉や森下洋子〈白鳥〉や松本白鸚ラ・マンチャ〉の老後の舞台を貴代の名演とするか、「そもそも舞やバレエやミュージカルはそんなものではない」と斬り捨てるかの違いにも通じる。「良かった、良くなかった」だけを語る「批評もどき」など、その意味では何の価値もないものである。

これこそ一昨日の日剩に書き写した小津安二郎の言葉

芸に携はる人間は──少なくとも芸だ──何より自分の個性に、自分の気質に従順であり度い。そして、その上で最善を尽くす可きだ。

で思つたところなのだ。

22世紀の民主主義 選挙はアルゴリズムになり、政治家はネコになる (SB新書)

成田悠輔『22世紀の民主主義』を読む。出版元のSBクリエイティブは聞いたこともなかつたが落合陽一とかの著作もあつてソフトバンク系の出版社の由。著者は政治など専門外だといふが思考と判断で抜きん出た頭脳があるから基礎の分析は明晰。民主主義(民衆支配)について。

- 異質な考えや利害を持つ人々や組織が政治に参加でき、互いに競争したり交渉したり妥協したりしながら過剰な権力集中を抑制する仕組み。
- これを象徴するのが執行/三権や無数の監視機関への権限の分散であつて、もう一つの制度が「選挙」

自由で構成な普通選挙を通じて有権者の意識(民意)が政策決定者を縛ることで、民衆が支配する。横から監視し、下から突き上げる諸力が憲法に規定され、簡単にはその仕組みが解除できない状態になっている。

これが民主主義の(理想的な)典型的な形。だが「どんな天才もバカも、億万長者も無職パラサイトも、選挙で与えられるのは同じ一票」で「年金生活者が投票者のほぼ半数を占める日本」で民主主義をやると「白髪染めやカツラの通販が妙に多いお昼のテレビ番組」のやうに「老人っぽい好みへの忖度が物事を突き動かしていく」やうになつてしまふ。民主主義は11〜12世紀に欧州で(北中部イタリアなど)に群生した都市共和国くらゐの(日本でいつたら堺のやうな)規模には機能するのだが。

人類は世の初めから気づいていた。人の能力や運や資源がおぞましく不平等なこと。そして厄介なことに、技術や知識や事業の革新局面においてこそ不平等が大活躍すること。したがって過激な不平等を否定するなら、それは進歩と繁栄を否定し、技術革新を否定する、仮想現実に等しいことを。

民主主義の後退(backsliding)。今世紀に入つてから非民主化専制化する方向に政治制度を変える国が増え専制国・非民主国に住む人の数の方が多数派なのださう(今後もこの傾向は加速)。今や民主主義は世界のお荷物なのか?そんな独裁や専制は誰も求めてゐない。今の欠陥のある民主主義も限界がある。そこで
- 民主vs専制の聞き飽きた二項対立を超えた民主主義の次ん姿への脱皮
- 民主主義との闘争、逃走、そして新しい民主主義の構想が必要
「逃走」なんて聴くと40年も前の浅田彰の〈逃走論〉をふと彷彿してしまふのだが。そして筆者の提唱するシステムとして〈無意識民主主義〉がある。この著作の冒頭にある「要約」から引用。

選挙は民意を汲み取るための唯一究極の方法ではなく「エビデンスに基づく目的発見で用いられる数あるデータ源の一つに格下げされ」て結果、民主主義は人間が主導で投票所に赴いて意識的に実行するものではなく、自動で無意識に実行されるものになっていく。人間はふだんはラテでも飲みながらゲームしていればよく、アルゴリズムの価値判断や推薦・選擇がマズいときに介入して拒否することが人間の主な役割になる。人間政治家は徐々に滅び、市民の熱狂や怒りを受けとめるマスコットとしての政治家の役割はネコやゴキブリ、デジタル仮想人に置き換えられていく。

これが本論ではさらに理念的に昇華してゆく。

選挙はアルゴリズムになり、政治家はネコになる。国民の無意識下にうごめく一般意志に、データを通じてアクセスする、ネコの仮面を被ったアルゴリズム。それが無意識民主主義の神託を受け取る巫女になる。

……。通読してみて最後に印象に残るのは結局のところチャーチルの有名な格言。

民主主義は最悪の政治形態である。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆく政治形態を除けば。

アタシにはこの22世紀の民主主義の正体は皆目見当もつかないものであつた。

f:id:fookpaktsuen:20230505095737j:image

今日はラヂオも随分と聞いた。

ヤマザキマリラジオ(ゲスト山下達郎)NHK 山下達郎NHKラヂオ第1放送出演は47年ぶり。

邦楽百番)義太夫「義経千本桜」河連法眼館の段(NHK) 竹本織太夫、鶴澤燕三Ⅵ(六代)、鶴澤燕二郎。

〈名曲ヒットパレード〉昭和62年の歌謡曲特集。80年代ポップスの完成度の高さ。STAR LIGHT(光GENJI)/ WAKUWAKUさせて(中山美穂)/ SHOW ME(森川由加里)/ Strawberry Time松田聖子)/ Get Wild(™ NETWORK)/ 輝きながら……(徳永英明)/ 難破船(中森明菜)/ 木枯らしに抱かれて(小泉今日子)/ 雪國(吉幾三)/ 命くれない瀬川瑛子