富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

野村万作抄㉙

癸卯年閏二月廿五日。気温摂氏12.4/17度。雨(28.5mm)。

f:id:fookpaktsuen:20230416104424j:image

この▼展覧会が水戸芸術館で開催中。

ケアリング/マザーフッド:「母」から「他者」のケアを考える現代美術 ―いつ・どこで・だれに・だれが・なぜ・どのように?|水戸芸術館

招待券あつたので家人と芸術館の近所でお昼食べてから、と思つたら新市民会館ができるエリアだといふのに土曜のランチは京成百貨店の食堂街か、外での選択はわずか数軒のみ。昔からあるハンバーグ(れんが家)に初めて?入る。中央ビルは地下の食堂街が1軒だけ中華料理が存続してゐたが2月末に閉店で地下街閉鎖されてゐたことに今更気づく。

テーマはよくわかるところだが出典してゐるアートの作品がアタシはピンとこないものばかり。

ひとは誰もが、日々の生活のなかで、あるいは人生のさまざまな場面でケアを受け取り、またケアをする機会を経験します。哲学者エヴァ・フェダー・キテイが「どんな文化も、依存の要求に逆らっては一世代以上存続することはできない」と述べるように、自分以外に関心を向け、気を配り、世話をし、維持し、あるいは修復するといったケアにかかわる活動は人間社会を支える根源的な実践といえるでしょう。しかし、生産性や合理性を追求する近代社会の形成においてケアの役割とその担い手の存在は長く周縁化され、他者化されてきました。ケアにかかわる活動は、誰もが必要とするからこそ、あたかも「誰か」の本質的な仕事のように自然化され、不可視化され、あるいは自己責任化されています。その「誰か」とはどのような「人間」であり、どのような「つながり」のなかにあるのか―本展覧会は15名・組による現代美術作品を手掛かりに、展示や関連プログラムをとおして、ケアを「ひとり」から「つながり」へとひらくことを試みます。

まだ映像作品とか見てゆくといふ家人と別れてアタシは劇場へ。毎年1回で、もう29回目となる野村万作狂言公演。

裕基さんの小舞ひで〈海人〉は先日、能で同曲〈海士〉見てゐたのでわかりやすいところ。動きに硬いところもあるが若さゆゑの美しい舞ひ。万作師の〈花盗人〉は桜の枝花を盗む悪人のはずなのだが、まさひ慈悲。誰が見ても憎むどころか崇高なる人格の盗人を演じてみせる。晋三テロ(未だ真相不明)に続き岸田すら和歌山の漁港で爆弾騒ぎだが、いずれも「テロリスト」の表情にどこか真面目を感じはせぬか。中入り後は萬斎さんの〈悪太郎〉なのだがお父上の〈花盗人〉のアトでは悪太郎の無情もまだ/\かもしれない。萬斎さんの「演出のやりすぎ」が個人的にはちと苦手。

まさに朗報とはこれよなぁ

(インタビュー)元内閣法制局長官・阪田雅裕「憲法9条は死んだ」:朝日新聞

安保法制の問題は、わが国が攻撃を受けていない、侵略されてはいないのに進んで戦争に参加することです。憲法改正のハードルが高いのはどの国も同じです。国民に必要性を説明し説得するのは政治家として当然の責務と思います。それをせずに、統治権者の意思で国のカタチを変えてしまうようでは、法治国家とよべず、北朝鮮のような独裁国家と同じになってしまいます。

▼何だかの話で創価学会や学会員への罵詈雑言になったとき「自民党支持者よかマシ」というと、場がどっしシラけて皆が黙り愉快千萬。