富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

長崎市街をめぐる

癸卯年閏二月初八。気温摂氏4.3/16.2度(水戸)。7.9/20.5度(長崎)。快晴で朝から紫外線が強い。市電の1日乗車券購入。600円だが市内均一料金は140円なので(それでもつい最近までは120円)4回以上乗らないとモトが取れない。家人は長崎は高校の修学旅行以来2度目で原爆資料館平和公園に行つたことがあるので午前中は別行動。彼女は高校3年のとき学年の行事委員だかで修学旅行は当時、都立高校は3泊4日で行き先を委員会で選考してゐたときに夜行列車の車中泊は3泊に含まれないことにできないか?となり教員に相談したら都の教育委員会に問ひ合わせしろ、といふことになり彼女が代表で都教委に電話したら担当者から目的地に行くための車中泊は3泊に含まないといふ言質を得て夜行列車で東京から長崎に来たさうで寝台列車(特急「さくら」だらう)の車両貸切は本当に楽しいものだつた。ちなみに翌年の高3が同様の企画をした際は「車中泊も3泊に含む」となつてゐたといふ。閑話休題。市電の浜町アーケードから新地中華街乗り換へで赤迫行きの本線で原爆資料館下車。此処には長崎西洋館といふ商業施設あり市電はこの建物内を通り抜ける設計なのも、この施設が長崎電気鉄道の資本下にあるため。この建物内に長崎路面電車資料館あり折角なので参観しようと思ひ西洋館の開店が午前10時でアト10分ほどだつたから待つことに。開館で施設に入ると電車資料館は午前11時から。参観断念。この西洋館、かなり昭和のテイストだが開業は1990年でぎり/\平成。それでも施設老朽化も著しく疫禍でテナント撤退も相次ぎ今年5月で施設閉鎖決定なのださう。聖パウロ通りの坂を上り国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館参観。栗生明(1947〜)の設計で2003年に開館。猛烈な熱のなかで命を落とした原爆犠牲者に「水」を供へ続ける施設。隣接の長崎市歴史民俗資料館は休館。長崎原爆資料館参観(久米設計)。現在からスロープを年の数字を遡りながら地下に巡り下りてゆくと1945年。長崎に原爆投下に至る前史、米軍の原爆計画の開始から広島と長崎への原爆投下に至る状況、原爆投下とその悲惨な被害の実情、被爆の後遺症、原水爆禁止運動、核廃絶と平和への希求と時間軸での展示が誰にでもわかりやすい。海外からの見学者も多いが米国人が多いのも事実。この敷地から原爆地公園にかけ桜が満開。

医学部通りを抜け浦上天主堂参拝。カテドラル内も観光客に開放されはゐるが静寂そのもので信者であらうボランティアスタッフが管理と募金になる記念品の販売など担つてゐる。被爆のマリア。旧天主堂の堅牢な鐘楼が原爆で坂の急斜面に崩れ、そのまゝ遺構に。原爆の威力はこれほど凄まじいものとは。天主堂通りを下り平和公園駅へ。途中、客で賑はふ和菓子屋あり(寿福)。大福と春らしい上生菓子を買ひ求め市電で市街に戻る。家人と銅座町餃子菜館萬徳で待合せ。見た目は古びた町中華の間口一間の狭い食肆だが長崎版のMichelinでビブグルマンに選ばれたこともあるのださう(2019年)。麻婆炒飯といふのも注文してみたがこの食肆の麻婆豆腐もかなり美味で唸るほど。長崎の中華のレベルの高さは横浜以上だらう。

市電で石橋へ。家人もよく情報を仕入れてゐるもので、この市電終電の近くから公共エレベーターでグラバー邸の高台まで上がれるのだといふ。石橋のシマダ果実店のカットフルーツもお安く美味しいもの。今日はもうすつかり観光づいてグラバー園参観。建物は旧長崎地方裁判所長官邸、オルト邸など保存修理工事中。建物が保存されてゐるだけでも立派ではあるが内壁など壁紙もなく漆喰の簡素なもので照明や調度品などの保存が少ないため、かなり質素な住宅に見えなくもない。大浦天主堂の前を通り横道に入つてゆくと寺があり。こちらが幕末に英国領事館が置かれた妙行寺。万延元年。万延元年のフットボールなら大江健三郎。石橋の停留所まで下り大浦オランダ坂を上り洋風建築群をかすめ狭い路地の迷路のやうな十人町の坂を下りみさき道へ。唐人屋敷跡。古い建物群に観光客相手の商業店舗や飲食店などテナントとして観光地化することで地域活性化も図られたが唐人屋敷跡といふより戦後の昭和建築多く老朽化著しく建物の閉鎖や取り壊しが続いてゐる。

家人が訪れてみたいと言つてゐた私設の岩永市場も閉鎖されてをり楼上の集合住宅もすでに無人。路地で建物の解体が続いてゐて構造からして公衆浴場。もう全てが記憶遺産と化してゆく。今日はもうすつかり観光した気分だつたが時計を見たら、まだ午後3時半くらゐ。中華街を抜けて出島へ。国指定遺跡ださう出島は明朝にでもちょっと寄つてみれば良いか、と思つてゐた程度だつたが訪れてみると土塁や石垣など当時の遺跡の維持も立派で出島内の建物の復元もかなり当時の工法など重視して壁の建造なども仕上げまで立派。建物内の工具や調度品までかなり見事に復元して見せてゐる。グラバー園の建物の内装や調度が簡素だつたのに比べると「これでもか」の復元にはあばらかべっそん。

思はず軽く1時間半は見学してゐた。出島の向かひ、つまり昔は海だつた埋立地だが、そこに市電の走る道路沿ひに古い建物があるのを家人が見てゐて、そちらも拝見。日新ビルといふ。築60年ってこれほど老朽化するとは。

思案橋横丁で一昨日は定休で昨晩は午後8時の開店時間遅延でかなりの列だつた中華料理の〈康楽〉が午後6時に開店なので、それに間に合へば入れるかしらと出向く。昨晩からどれだけ中華なのか。銅座町の歓楽街の路地を歩いて抜けやうとしたら方向感覚の良いはずのアタシも路地の迷路に迷ひ開店に少し遅れたら開店に合はせた客で満席。しばらく待つことになつたが店の扉前にはアタシらより先に野良猫が一匹。

とても人懐こい猫で愛でてゐたが彼女の視線は店内の給仕に忙しいお姉さんを追ふばかり。時々そのお姉さんにミャーとご飯をねだつてゐるやう。かなりの常連。その猫には申し訳ないがやつと卓が空いたのでアタシたちが入れてもらふ。猫はずっと外でまだ店内を覗いてゐたが、お姉さんがちょっと手が空いたときに彼女にもさっと餌を出してあげた。かなりの信頼関係。

昼の万福もさうだつたがこちらも長崎の中華ではかなりの人気店。餃子も酢豚も美味。餃子は今日二度目。酢豚は昨夜も食べてはゐたが店により味が違ふから飽きない。こちらの店もサッポロの赤星があつて(だから赤星探偵団で見つけたのだが)赤星2本を家人と飲んでアタシは焼酎のお湯割りを2杯。焼酎とお湯が8:2とお願ひしたら、お姐さんがグラスにたっぷりお湯を注ぐので思はず「あ、お湯少なめで」と口走つたら「グラス、温めてるだけ、酒飲みだからわかりますよ」と笑はれた。

この見世で何が目に楽しいかといへば中国の画家・呉作人(1908~1997)の作品が壁に何張も掛けてあることで更に飽きずに見てゐられたのが「康楽」と店名が揮毫された大きな額で「一九七七年十月作人書於長崎」とある。お姐さんにこれを話すと、もう何十年も掛けてゐるが、これが呉作人で、といはれたのは二度目ださう。最初は書家の方だつたさう。1977年といへば7月の中共第10期三中全会で鄧小平完全復活。その秋に長崎に呉作人が訪れ康楽の先代は作人の才能に着目して多くの作品を購入し作人は大きな恩恵を受けたさう。その後、作人は中国代表する画家となる。先代の先見の明そのもの。今では呉作人の作品などとても入手できる金額ではない。狭い店内で4卓のみ。そのうち1卓は空けたまゝで2階は予約の客2組こそ上げてゐたが、あとは上げず。ゆっくりとお話も聞きながらお酒を飲んで店を出たら10人近くが行列で待つてゐて恐れ入るばかり。食べログの中華料理(西日本)百名店に長崎で2軒だけのうち1軒なのだから。

せっかく長崎に来たのだから、と家人に誘なはれ中島川に架かる眼鏡橋へ。寛永11年(1634)に長崎興福寺の渡来僧・黙子如定により架設されたと伝はる(国重文)。

ホテルに戻り横の通りからホテルに入る通路があるのか、と思つたらホテルの建物の一角がパチンコ店の換金所ではないか。換金所なんて薄汚れたビルの路地裏にでもありさうだが、こちらは本当に明るく清潔な場所であばからべっそん。さういへば長崎で目立つたのはパチンコ店。都道府県別の店舗数を人口10万人で見ると最多は鹿児島県で14.4で次いで高知県(12.5)、鳥取県(11.9)、宮崎県(11.8)で長崎県(11.7)は5位。西日本が圧倒的だがやはり長崎はパチンコ店が多い。ちなみに東京都は6.5で44位で最下位は意外?に沖縄で5.6なのだが沖縄はパチンコなんかやらないでもつとイカしたことしてゐるのかしら。

【後日談】この日訪れた長崎の唐人屋敷跡にあつた岩永市場を7か月前の2022年8月に訪れた方のブログを見つけた。当時すでに岩永市場はもう市場として機能してはゐないが、この探訪者は市場のなかを通り抜けてゐる。そして解体工事中の公衆浴場もまだかろうじて、いかにも唐人町らしい美しい外観を保つてゐた。半年で今のやうな建物取り壊しでは半年後はもう更地。