富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

心より心に伝ふる花(観世寿夫)

癸卯年閏二月初二。気温摂氏9.8/19.6度。曇のち雨(12mm)。

観世寿夫『心より心に伝ふる花』(白水社、昭和54)読む。現代の世阿弥とまで呼ばれた寿夫が昭和53年末に53歳で逝去。亡くなるまで書いてゐた雑誌『新劇』への連載のタイトルがこの「心より」。この連載の中でも「秘する花」が秀逸。世阿弥は義満の寵愛を受けながら華やかな人気もいつ失墜するかわからず武家貴族に接近したばかりに生命がけの舞台生活の中で何を究めたのか。

表装的な物真似から本位の物真似へ、意味内容や感情の演技ではなう抽象的な動きの中から観客のイマジネーションを挑発する方向へ(略)(世阿弥の)「公案」を発展させていったのだ。役者が役に化けるのではなく、まして役を自分の都合の良いようにあやつるのでもない演技を求めて。

かうした姿勢から大野一雄を彷彿。六世歌右衛門

能の役者は役に化けるのではなく役を通じて生きている証言をするのだ(略)。人間の生きざまを、舞台にさらすのだと。

この言葉が辞世のメッセージ。

能は人間を描く。だから人間の感情を表現する。しかし感情をあからさまに表出しようとはしない。とくに夢幻能においては現実的な描きかたでなく抽象的な手法によって観客の想像力を触発しようとする。そこでは演者も役も特定の誰かであることを否定されている。地謡もシテも本当は一人称でも三人称でもないわけだ。そこに「我」の表現はない。だから能の演技を成り立たせる基本であるカマエやハコビ、そしてすべての演技表現は、まず安易な表現欲を切り捨てさせられるところから出発する。しかも「面」によって演者は顔まで失わせられてしまうのである。
無人称なところに立ち返る。そうしてそこから、新しい面の呪術性が捉えられるのだ。語りものを背骨として構築された夢幻能の形式のあんかで仮面というものの呪術性を無人称敵な性格として捉え直し、より深いところからその生命を汲み上げて生かし直したのが能における女面だったのではないだろうか。世界の仮面のなかでの、それが女面の特質ではないだろうか。
語り物という手法で生きている夢幻能。その能が色濃くもっている憑依性。能面はそのなかで、いわば依りしろのようなもの、といえるだろう。やはり能面はオモテそのものなのである。(「能面、その内なるドラマ」より抜粋)

超人格。寿夫を失くした妻・関弘子のあとがきに心打たれるばかり。 


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栃木で取り立てのレタスをいたゞいた。NHK教育の〈0655〉で流れる木村カエラの〈レタスレタス〉のシンプルなレタスのサラダが良い。香港の香辛料の老舗・源興のチャイの素がもうなくなりさう。これだけのためにでも香港に行く理由ができさう。

毎日コンスタントに毎日2杯の氷なし濃いめハイボールを飲むアタシには深刻な値上げ。6日ももたない700mlが1,590円が1,910円に。これでいくと月にサントリー角だけで月8千円の出費である。