富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

常陸太田12月倉

壬寅年十一月十八日。気温摂氏4.1/12.2度。晴時々曇。自家用車で国道349号線北上して太田へ。常陸太田市は佐竹の時代から「太田」なのだが昭和29年に久慈郡太田町が付近の村を編入して市制施行の際に既に群馬県太田市があつたものだから常陸太田としたもの。つまり行政的には常陸太田だが我々にとつては太田で何も差し支へない。平成16年に金砂郷町水府村と里見村との合併で面積は372㎢と茨城県の市町村で面積は最大だが全国で見れば312番目の大きさで岐阜県高山市常陸太田の6倍近い大きさ。常陸太田の人口は5万人に足りず市中も閑かなものだが昔から「茨城の小京都」なんて呼ばれるのは太田城南側の台地で東と西の通り沿ひ商家が軒を並べ商業が盛ん。空襲に遭はなかつたのが幸はひで江戸時代からの商家や土蔵、明治時代の近代建築などがまだ残つてゐる。通常の城下町ならこの台地は差しづめ武家屋敷で民家は水害リスクのある低地にあつてこその城下町なのだが太田は佐竹氏が水戸に移つた後も領内で水戸藩では水戸徳川家墓所が水戸から真北の太田瑞龍山に設へられ徳川光圀の隠居所・西山荘も太田。太田は水戸藩家老の管轄で武家を多く据へる必要もなく城南の台地も商業地になつたのだらう。太田の呉服商が水戸に進出して志満津百貨店(現在の水戸京成百貨店)となり他に亀宗だとか水戸で太田商人は成功した歴史あり。その太田の台地の商業地がいつ頃から「鯨ヶ丘」と呼ばれてゐたのか知らないが確かに東の低地から眺めると鯨の背に見えなくもなし。今では他の都市同様に市の中心部の商業地は壊滅的なありさまだが太田は前述のやうに古い建物が残つたことでノスタルジアもあり鯨ヶ丘の商店街が12月に「12倉」なる地域活性化のイベントを開催してゐるのださう。

市中の旧市役所(梅津会館*1)の駐車場がベストなのだが本日は茨城県議会選挙が同日開催で梅津会館が投票場*2で駐車場も投票者専用。市街地からは低地にある市役所や遠くの運動公園などがイベントの公式駐車場として利用推奨されてゐるが市街地の某公共施設の駐車場が空いてゐたので本当はダメなのだが利用してしまつた。ごめんなさい。とくに誰に迷惑もかけてゐないやうだが。


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東仲之町を南に歩く。歩行者天国ではないが自動車通行は少ない。江戸時代から戦前までの建物が本当にいくつも並んでゐる。これでも随分と取り壊されてゐたのだが街並み保存機運高まり残されたもの。

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随分と空き家も目立つがこんな割烹旅館ももう再活用も困難かもしれない。東仲之町から東に路地を入つたところの割烹旅館花柳跡。


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東と西の通のすぐ先は崖のやうな急坂で南北に細長い台地は幅が300mもないだらう。南側から(JRの常陸太田駅から)の坂を上りきつたところ、東西の商業地への追分は今は広場で今日もイベント開催地となつてゐたが昔はこゝに太田警察署があつた。


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見事な作業場やいくつもの蔵のある商家がいくつもあつて今でもまだ商業活動をされてゐる。

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旧太田町役場(その後昭和29年まで市庁舎)の梅津会館。外から見るとそれほど大きくなく見えるが内に入ると二階の会議堂など実に広い。この画像(下)の反対側が多少高床でそこを議長席にすると町議会、市議会が開催できる設計。

古地図を見るとお城が太田大地に西に位置して内堀を経て東に台地が延び嘗ては武家屋敷も並んでゐたやうだが、そこが見事に商業地となつた。


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東と西の通りの間に三本の小路が走り、そこが昔からの商業地だつたやう。その角は西の辻、東の辻と呼ばれる。


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まぁ1時間もあれば十分かと思つたが市街を漫ろ歩き買ひ物をしてゐたら昼近くになつてしまつた。喜久屋の味噌。山城家は街頭に出店でおはぎ。なべやちまき

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昼食はソースカツ丼が馳名の〈釜平〉も選擇にあつたが「あの」慈久庵による〈鯨荘塩町館〉が待ちはまだ一組み程度で入れさうだつたのでこちらへ。南阿佐ヶ谷の慈久庵が久慈の山奥に移設されてもう幾年か。竜神峡といふ風光明媚な場所にあるが、その慈久庵がこの鯨ヶ丘の旧太田銀行の建築を再生利用で開いたのがこの蕎麦屋。地元のけんちんそばが人口に膾炙す。慈久庵の蕎麦は「一度は食べてみたい」と日本中から蕎麦好きが遠路遥々訪れるが水戸からだつて近くはない(距離は40km)。悪い意味ではなく賛否両論の慈久庵、あれを「究極の蕎麦」と評する人もゐれば"Ce n'est pas du soba !" と否定も少なからず。とても不思議な食感。けんちんのつけ汁の蕎麦が1,800円で大盛りは500円増し。

笠間日動美術館で開館50周年記念にあたり〈夭折の画家たち〉といふ展覧会あり。これが今月18日までで今日見ておかないと訪れる機会もない。鉄道だと常陸太田から水郡線上菅谷乗り換へで水戸から水戸線で笠間だが自動車だと県道61号線で山沿ひの道を瓜連から城里(石塚)を抜け1時間もあればすぐ着いてしまふ。

外光派の先達としての青木繁。新宿界隈の中村彝、佐伯祐三。大正から昭和にかけての関根正三。池袋モンパルナスの松本竣介。中村彝の絵の眼に引き込まれさうになり怖い思ひ。

中村彝〈友の像〉1912年

中村彝〈少年像〉相馬安雄氏像 https://www.nakamuraya.co.jp/pavilion/history/

*1:梅津会館こと郷土資料館本館は昭和11年に太田出身で函館で商業に成功した実業家・梅津福次郎の寄付により建てられたもので南東角には角塔を、正面には大アーチの車寄せを備えた本格的な庁舎建築。主要部はタイル張りでアーチのキーストーンには装飾が施されてゐる。昭和53年まで市役所として利用されたのち同55年に郷土資料館として開館。

*2:通常なら市立小学校が選挙の投票場になるところ太田の市街中心部にあつた小学校は過疎化で統合移転されてゐる。