富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

植草甚一『ぼくの東京案内』

陰暦五月廿九日。気温摂氏22.6/35.5度。快晴。猛暑日も3日目。梅雨明け。今月6日に梅雨入りして3週間ばかり。平年だと1ヶ月半ほどで100mm以上の降水があるが今年は水戸で67.5mmで、それも梅雨入りの初日(6日)に40.5mmの大雨があつて9日の未明にも短時間の土砂降り(15.5mm)があつて、この2回の雨を除けば11.5mmで降水記録があるのは5日だから本当にお湿り程度の雨があつただけ。それだけ。

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国道359号線上菅谷付近で出会したトレーラーのタンクがピカピカのメタルで後方から見ると円形でまるで神社のご神体の鏡のやう。これが走り出すと鏡に映つた自分と背後の風景は円周から円の中心に吸ひ込まれてゆく。運転中に、この視覚効果は一寸危ない。このトレーラー、ちなみに牛乳輸送用である。それにしてもなんて磨き込みの見事なのかしら。今日の夏空に本当に映える。

県北に居住する叔父が県央(茨城町)にある水戸医療センター独立行政法人国立病院機構)に通院のため送迎。本日は採血で明日が注射で明後日が診断だといふ。1日で済ませられないか、遠方から3日も続けて不便な場所にある医療センターに通うのだから(もし公共交通機関の路線バスで来たら往復4千円!)検査入院でもさせてくれゝばと思ふのだが「病床確保」のため入院するほどの病状でないと通ひになるといふ。


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昼前に医療センターについて午後まで時間があるので医療センター近くの結構評判の手打ち蕎麦屋へ。お客の多くが「天もり」注文してゐるので、それを真似たら蕎麦はまぁ茨城では「並み」の手打ち蕎麦だつたが天ぷらがよくない。衣がべちゃ/\の素人天ぷら(画像左上)。海老など具の味も抜けてしまつてゐて食べ残す。天ぷらは画像右上のやうなの(蕎麦処みかは)が出てくると本当に嬉しいのだが。


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医療センターのドクターヘリも活躍。それは良いことだが駐車場の管理をしてゐるスタッフがドクターヘリ到着の際はそちらの安全管理も兼務らしく現場に行つてしまひ駐車場出入り管理のスタッフは不在。午後2時以降は駐車場利用の検印も病院受付でなく「駐車場で」となつてゐたのでドクターヘリ到着など知らないから駐車場に行つてしまふと対応がなく医療センターの建物に戻り「初診受け付け」で駐車場検印をすることになつてゐる。患者本人が自動車で来てゐたら余計に不便。前回この医療センターに叔父がその時の入院前にPCR検査が必要で唾液サンプルを持参したときも「ここで待つてゐてください」の案内があるので、そこで待つてゐたら実はそれは「サンプル受け付け時間まで」のことで受け付け時間を過ぎたら直接、窓口に行けば良い、であつた。何なのだらう、この不便さ。そも/\こんな郊外の不便な場所に医療センター建造することぢたいおかしな話。確かに場所的には県央のど真ん中だが。元々の水戸国立病院があつた場所は水戸市街の旧制水戸高校跡地。昭和40年迄は水戸駅から市電が通つてゐて、まことに便利な場所であつた。

水戸医療センターまで行つたので茨城町の本田農園の直売所へ。今はトウモロコシの盛り。じつに美味しいトウモロコシをいたゞいた。

ぼくの東京案内 (植草甚一スクラップ・ブック)

植草甚一ぼくの東京案内』(晶文社)読む。医療センターの昼すぎからはもう静かなロビーで冷房も適度ななか読書。昭和52年の東京。晶文社などから一連のJJの著作が出版されて80年代に空前のJJブームとなる。JJの歩く東京は銀座、渋谷や青山とかあるが何といつても新宿。

(本当の)新宿の姿を、昼間のあいだはデパートが表面には押し出さないようにしているが、デパートが閉店したあとになると、新宿は、そのアイデンティティを発見したかのように振る舞いはじめるのだ。

JJは新宿の視覚的な特徴をかう書いてゐる。他の繁華街との「どこか気分的に非常な違い」は「新宿の夜空が頭の上のほう」ですぐ暗くなりだすことだといふ。それがなぜかといふとネオンサインの明滅する看板が遠くに見え、周囲の高層ビルの窓が暗く閉ざされ、そのため全体的に暗いから。

そして、すこし上のほうまでだけ明るくなっている繁華街の横丁へと曲がってみると、妙に黒く澱んだ空気が支配していて、そのさきのほうが明るくなっている。そうした暗くて短い通路が、あっちこっちに、いくつも出来上がるのだが、そこを歩いてゐると、暗闇に吸いこまれたようになって気持ちがリラックスする。そういう点では昔の新宿と変っていないようだ。

そんな暗闇のなかに吸ひこまれてゆくと若者たちの行列。芝居小屋。そこでJJもその芝居にハプニング的に入り込むのだ。これが当時の新宿。新宿は辛うじて当時からの雰囲気がまだ少しは残つてゐるだらう。それに対して本当に変貌してしまつたのが渋谷。経堂に住まふJJは渋谷には路線バスで通つてゐた。公園通りが面白くなり始めたころ。宇多川町には個性的なショップが並び、この絵地図には描かれてゐないが宮益坂の洋書店などまで足をのばす。
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昭和の終はりころ銀座から新宿行きの都バス(都03系統)に乗つてゐてイエナ書店(正確には近藤書店)の前を通り過ぎて「JJがゐたりして」と思つたら本当にJJが近藤書店前のワゴンで立ち読みしてゐるのだから愉快な時代だつた。

香港の教育界牛耳るアーサー王・李國章が香港青年の海外移住につき「海外で生活習慣が違う、やはり地元が良い、外国なら所詮二等国民扱ひで香港に戻れば仕事もあつて収入も保障されるのだから、結局は若者は香港に戻つてくるだらう」と相変はらずのアイヤー~放言。この人の無神経さに呆れるばかり。
立法会など選挙に立候補したり民主派団体の活動家が根こそぎ逮捕され収監されてゐる現状を見れば、香港の状況は「カネが儲かれば良い」ではないことは明らかなのだが。

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