富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

吉田健一展@神奈川近代文学館

農暦四月二日。気温摂氏7.9(水戸)/ 19.9(横浜)。晴。品川から横須賀線電車(品鶴線)で横浜へ。この路線乗つてゐるやうで初乗り。西大井あたり昭和の老朽化した見窄らしい家屋少なからず残る。みなとみらい線で元町中華街。港の見える丘公園から眺められるのは貨物倉庫と貨物ターミナルの向かふに横浜ベイブリッヂで殺風景の極み。庭園のお花はきれい。もうすぐ薔薇が美しく咲くだらう。神奈川近代文学館


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吉田健一が死んだのは昭和52年でそれからもう45年も過ぎてゐてそれほど大した小説作品を残したわけではないし澤山の翻訳もしてはゐるが逝去から半百近くになつてもまだ我々の記憶に残りかうして立派な内容の回顧展が開かれるのは吉田健一が大久保公牧野公の家系で戦後宰相臣茂の子息であるのに生臭い政治や権力を嫌ひあの飄々とした態度で文学を目指した生き様に我々が共感するからである。作品の一つ/\が何うのかうのではなくあの「雰囲気」が素敵なのである。

我々は何かを求めて本を讀みはしない。たゞ讀んだ後で、それが本と呼ぶに價するものならば、或ることに出會つた感じがする。

数日前にこの展覧をご覧になつた岩下尚史さまが実に見事に書かれてゐる。

ひとくちに讀書と言つても、本から手つとり早く知識を得やうとしたり、物を知つているといふだけで他人を見下したがるような、けち臭い、不潔で時代遅れのインテリたちのすなるものと、吉田健一の誠實かつ餘裕ある流儀とのあいだには、まさに雲泥萬里の違ひあり。
人が自立して、誰に邪魔されることなく自由に、また周囲にやさしく生きるいふことを眞劔に考へ、みづから貫きし正統文士の生涯を辿るよすがに、遺族に託された豐富な原稿や品々をうち並べ、簡明なる手引を添えた、どこからどこまでも共感の湧きいづる回顧展。

ハコちゃんはこの回顧展を「吉田健一に未知なる若き世代の人たち」に見てもらひたいといふ。

なぜなら、彼の文學こそ、今の若者たちの素直で、穏健で、公共を大切に思ふ心情や感性に近きものなれば、困難な人生に窓を開いて呉れるやうな、良き友となるであらうことを信ずればなり。

今回の展覧で吉田茂国葬の日の映像をじつくりと初めてみた。大磯の吉田邸を出て日本武道館国葬。長身痩身の健一が父の遺骨を抱き、あの独特の膝を折つた腰の低い歩き方。誰が見ても吉田茂の倅がなぜ堂々とせずあゝなのか「日本戦後の不気味」そのものかもしれない。


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お昼を越して吉田健一展をかなりぢつくりと見て元町商店街に下り通りかかつたダインで🍔ほゝばる。銭湯に一浴。通り雨。中華街はこれでもかといふほどの人混みだが香港飲茶の食肆など行列もあるが皆、通り沿ひの店先の買い食ひばかり。少しでも飲食店に入りきちんと食べてみれば良いものを。これでは食文化も飲食業も育たない。3年前に香港から日本に戻つてゐた畏友B君と早晩に〈徳記〉で再開し旧交温める。中華街でも人口に膾炙せし徳記だが「純廣東料理」は昔の話。この屋号で再開したが今では四川風から北京ダック、水餃子から海老チリまで何でもござい。随分と客も多いがやはり香港で本場の美味なる粤菜も麻辣で咽せるやうな川菜も食してきたアタシらには「香港で日本料理食べてる感じ」かしら。もう少し飲みませうと元町愛知屋の角打ちに寄つてみるが日曜と月曜は角打ち休業。石川町の裏通りにあつた意太利の葡萄酒を出すバール(Fermata)で、お店の方も親切で楽しく飲んで語らふ。