富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

大原富枝『草を褥に』(小学館)

f:id:fookpaktsuen:20220425213741j:image

陰暦三月廿四日。気温摂氏14.4/19.2度。曇のち雨。
夕方まで読書。大原富枝著の牧野富太郎伝記『草を褥(しとね)に』読了。
夕方、昨日より水府に滞在のH夫妻をお迎へに参り自動車で大洗へ。おそのえ酒店に寄る。焼酎は小正の「蔵の師魂」。日本酒はご店主がH夫妻に水戸の「一品」と地元大洗の「月の井」を説明されて、そこで月の井は杜氏ががらりと変はつて竹鶴酒造だつた杜氏が来て味も純米から変はつてきた(特別純米純米吟醸はまだ)と聞き「月の井」の純米酒を調達。
いわし料理の味処大森。やはりお正月の頃の鰯と今ではとろみ、旨味が随分とちがふもの。カツオ刺身。メバル活造。フグの唐揚げ。塩むすび。水府は一品の純米酒。これだけ食べてお酒も随分といたゞいてお一人さま3,500円ほどである。


f:id:fookpaktsuen:20220425213800j:image

f:id:fookpaktsuen:20220425213806j:image

f:id:fookpaktsuen:20220425213803j:image

草を褥に―小説牧野富太郎 (サライBOOKS)

大原富枝『草を褥に―小説牧野富太郎』(小学館)を読むきっかけは高知の県立文学館で大原富枝といふ高知出身の作家の存在を知つて市街の古書肆、井上書店で家人が富枝の『ソドムの火』といふ書を見つけて購入して水府に戻つた後に図書館で、この『草を』を借りてきて富太郎を主人公にした物語だといふので早速、先に読ませて貰つた。

実家(生家)の膨大なと思っていた資産が全く使い果たされて、生計の費を植物学から得なければならなくなったとき、初めて学歴というものが彼に必要になって来たのである。生家の資産が生涯自分の研究生活を支えてくれるもの、と勝手に信じていた彼の世間知らずの愚かさが、三十歳になった彼の前に学歴という怪物となって立ちはだかったのを、彼は初めて知った。

佐川(高知県の山間)に名教館という優れた私学塾(儒学者伊藤蘭林による)があって、牧野富太郎という秀才にほぼいまの新制大学に相等する程度の学力を独学で身につけるだけの機会を与えたことが、彼を生涯、東京大学という学歴の殿堂のような所で、無学歴者として苦しめたのであって、これは皮肉な運命だった。

たくさんの学校の創立される時代に立ち会いながら、彼が学校へはいらなかったのは、他から教え込まれる知識や学問に興味が持てなかったからである。植物や動物や天や地や、空を流れる雲や嵐、暴風や大波や、地震さえ彼は大好きで興味があった。それらの自然からなら彼は素直に何でも学ぶことが出来た。人間の書いた書物から教えられることも素直に受け取ったが、自分より一段上の位置から教えこまれるのは好きではなかった。圧力がかかるとすぐに反撥した。彼は一を教えてもらってあとの九は自分で見つけられるのが好きであった。

実家と生業の造酒商・岸屋のことは従妹で嫁となつた猶(なを)に任せ東京では妻を娶つたが貧乏暮らしで妻・寿衛子は富太郎の借金返済を工面した上に渋谷で待合「いまむら」を開き商売を成功させ石神井の土地を買ひ富太郎に研究の場を提供する。本当に(アタシがいふのも何だが)生活面では全くダメな富太郎だが、その英才と人間的な憎めない魅力。天才で植物学に大きな功績あつて全てが免責とされてしまふから。この『草を』は小学館の雑誌サライに1999年から翌年にかけ連載されたものだが大原富枝は連載途中に逝去で、この小説が遺作に。

▼石倉デジタル監就任1年経たず退任へ 絶対に無理と思っていたが。デジタル庁ぢたい解散すべき。 https://t.co/L3Tym7FRSj 「学者出身ということもあり当初から組織運営の手腕を疑問視する声もあった」ってハーバードの経営学博士でマッキンゼーでコンサルしてて大手企業の社外取締役歴任。組織運営できない経営学って何だ?