富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

前田香徑『明治大正の水戸を行く』

農暦三月廿日。穀雨。気温摂氏9.2/15.3度。

前田香徑(明治26年生、水戸市議会議員、公安委員長等歴任)が昭和33年?に地元紙・茨城新聞に半年にわたり連載した地元語りをまとめた『明治大正の水戸を行く』(昭和44年刊、いはらき新聞社)は当時かなり水府では評判になりアタシの家にも一冊あつたので小学生の頃何度も開いてゐた懐かしい著作。実家の倉庫にも残つてゐるはずだが図書館の郷土図書コーナーにあつたので懐かしく借り出して再読。これが綴られた当時、明治元年生まれが齢九十でさすがに聞き語りといふわけにはいかないが、まだ親が幕末生まれといふ人も多く、大正生まれが四十代だから、かうした地元の歴史を残すことができたのであらう。それにしても昭和30年代はまだのんびりした時代で記述も水戸二高教頭の何某先生の常磐町の家は明治に、とか常陽銀行何某支店長の何某さんの祖父が北辰一刀流の、とか芸妓上がりで置屋で流行つた某女は御前山の何家の娘で、とか所謂プライバシーといふものもなくあれこれ書かれてゐる。「万年青(おもと)で財産をなくした煙草商の小沢安兵衛」とか今の人には意味もわからないだらう*1し「鯉沼材木店のところに駿河屋という米穀商があったが、ここの長男が水門町の料亭で武隈の芸妓と心中したのは日清戦争直後のこと、日本刀で切腹する前に男は女を一刺しに殺していた」なんて、まるで芝居そのものだが、この記事が連載された時から60年前のことで、まだ遺族だの関係ある人もゐたのに大した記述である。うちの祖父のことや当時の商売のこともいくつか言及あるが余計なこと書かれてをらず商売も評判とは幸はひ(笑)。

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奈良明日香村岡本寺はがき説法。父方の祖父が亡くなった昭和40年代は茨城県北の水府村和田では家から半里ほど離れた墓地まで野辺送りだつた。
母方の祖母が亡くなったときは通夜の晩に家に戻つてて(昭和50年代だったが、もう全通夜とか喪主が遺体に付き添うような習慣も薄れていたが)祖母の横で夜中まで昔を思ひ出しながらずつと一人で飲んでゐたら眠くなつて気がついたら祖母の亡骸を枕に酔って寝ていた(スミマセン)。翌朝早くに叔母が通夜なのに誰も付き添わなかつた!と思つて慌てゝ明け方に来たのだがアタシが祖母の横に寝てゐたのを見て安堵して感謝された。酔つ払つて寝てゐて誉められたのは後にも先にもあれが最初で最後。

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2019年の反修例のなか太古城で民主派の趙家賢区議会議員の耳を嚙みちぎるなどした正義漢溢れる市民に禁固14年半の実刑判決。元朗白色テロ(721)やレノンウォール襲撃などでも民主派活動家を襲つた一連の事件で収監の実刑判決が出てゐることは無罪放免とならぬことよりはずつとマシだが半面、民主派に対しては警察の許可とれずの「不法」集会や言論活動で実刑判決なのだから司法が公平とはとても言へず。蘋果日報(英文版)編集長も今後の政府転覆といつた煽動活動の恐れで保釈すら認めず。

*1:枯れることもなく青々とした葉をつける、が転じて老けても精力萎えることなく、か。