富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

宮脇俊三『時刻表昭和史』

陰暦二月廿三日。気温摂氏1.1/15.1度。いつかわからないが紛失してゐた銀行印を誂ふ。市街の商店街で店が次々と閉じてゆくなか判子やはハンコ離れの時代にあつて何故か昔からの店がいくつも残つてゐる。南町2の老舗二店のうち店内を覗いたら犬がゐる店の方を選んだ。保護犬で臆病なのださうだが初見でよく愛想をうつてくれた。

時刻表昭和史

宮脇俊三時刻表昭和史』(角川書店)読む。著者も生きてゐたら今年96歳。大正15年の生まれで昭和20年に旧制高校卒業して東京帝大(理学部地理学科)入学までまさに昭和の戦前、戦争の時代が青春。宮脇少年は陸軍予備役の父・長吉ウィキペディアが昭和3年の初の普通選挙となつた衆院選で香川一区から当選し渋谷(当時はまだ豊多摩軍渋谷町)の山手線沿ひに引っ越してからの鉄道好き。中3だつた昭和16年の夏に父が「どこかに連れていつてやる」といひ俊三少年が「旅行しちゃいけないと学校で言はれてるんだよ」と父にいふと父は「旅行に行つたことを黙つてをればいゝのだ」といふほど反軍的(もはや帝国軍は父の理想とする軍隊とは異質のものなのだらう)で父と富山から黒部渓谷に遊ぶ。昭和17年関門トンネル開通は戦時の貨物運輸強化で急ピッチで進んだものだが俊三君は何うしても関門海峡を鉄道で潜りたく両親もそれを許して旅の費用まで工面してくれたのは昭和19年の3月で旧制高校性だつた俊三も徴兵猶予もなく遅かれ早かれ兵隊にとられる=命を失ふ運命にあつたから。徴兵の前に敗戦となる。当時、家族は新潟の村上に疎開してゐて俊三は父と山形に出かけた帰り米坂線今泉驛で玉音放送を聞く。

時は止まっていたが汽車は走っていた。(略)昭和二十年八月十五日正午という、予告された歴史的時刻を無視して、日本の汽車は時刻表通りに走っていたのである。

三月十日の東京大空襲のあとも被災地の総武線の運転再開には六日を要したが山手線の御徒町~新橋間の開通は翌朝となつたが、それ以外の東都の路線は鉄道が走つてゐたといふ。
赤帽と弁当(駅弁)の話も面白い。東京~小田原間で辻堂と鴨宮を除く全駅に赤帽が配置されてゐたが(東京駅の赤帽廃止が2001年)逆に弁当は当時、品川、横浜、大船、国府津と小田原のみで著者はこの文章を書いた当時(1980年)は新橋と辻堂を除く全駅で駅弁販売があるのに比べ昔は駅弁が少なかつたと驚いてゐる。その後、駅弁は減つて今は戦前の5か所のうち国府津を除く4驛と川﨑、武蔵小杉、戸塚と藤澤で駅弁販売あり(売店だが)。ちなみに常磐線では手許に昭和39年9月の時刻表しかないが当時で赤帽は上野と仙台だけで弁当は上野、我孫子、土浦、友部、水戸、日立、高萩、平、富岡、原ノ町と仙台で販売されていた(現在は上野、水戸と仙台のみ)。

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シンガポールが感染状況改善で防疫制限緩和、旅客隔離解消となる由。さすが立派な全てunder controlのお国柄。これでまたアジアの中心都市として栄光あれ、である。香港のリンテイ市長は内地と世界を結ぶ通関で香港には利ありとするがお笑ひ種である。