富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

三一一翌日

陰暦二月初十。気温3.7/21.2度。昼間は初夏のやうな陽気だが朝夕はさすがに肌寒い。


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偕楽園の梅は七分咲きといつたところか。朝、自動車で千波湖畔を走つてゐたら偕楽園駅(臨時駅)に駅員がゐるのは今日が梅まつり期間の週末で常磐線の下り列車が停車ゆゑ。スマホで時刻表見ると丁度、特急ひたち3号が来る時間だつたので自動車を千波湖の無料駐車場に泊めて国道旧6号線の常磐陸橋まで歩いて橋梁から撮り鉄。先週末だつたら、このひたち3の後に大宮発(武蔵野線経由)のE653系国鉄色塗装で臨時列車〈水戸梅まつり号〉が来たのだが。


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あちこちで見事な梅の花を眺める。市街の〈梅香*1〉などさすが梅が地名になつてゐるほどで鈴坂の老木といひ梅香トンネルの入り口のまだ若い紅白梅といひ見上げたもの。

水戸市立博物館(西町)で特別展〈渡り鳥の不思議〉が明日までで同所の中央図書館に行つたついでに参観。サブタイトルの〈行く鳥 来る鳥〉は妙。アタシは自然科学に疎い上にトリが怖くて近寄りもしなかつたが水戸に戻つて住み始めると千波湖には白鳥とアヒル、鴨がゐて庭先には春になればウグイスが啼き初夏のツバメも愛らしいもの。それでも今日の展示を見るまで渡り鳥があんな距離を飛んできてツバメは南から飛んできてゐるとも知らなかつた。

TBSの〈報道特集〉では金平キャスターが3日前だかにウクライナルーマニアから東京に戻つてゐた。ウクライナの一人の市民曰く「何が悔しいかといへばロシアの友人たちが自分に謝ることなんです、敵は彼らじゃなくてプーチンなんです」。別の市民にロシア語で取材すると、その市民は苦笑しながら「英語でもいゝかい? ロシア語は聞きたくないんだ」と。311の取材でも福島県双葉町の「復興」をかなり深く取材。伊澤町長も真摯に自分の本人を語られてゐた。岩手放送(IBC)はTBSのJNN系列で311にあたり釜石からどんな映像が流れたのかと気になる。

今日の朝日新聞読書欄にあつた真梨幸子(作家)による西村賢太追悼の書評。

この書評の冒頭で紹介されてゐた西村賢太どうで死ぬ身の一踊り』(講談社)を早速、読む。この本には同人誌『煉瓦』第28号から(賢太の処女作なんださう)『墓前生活』と『群像』2005年9月号に掲載され芥川賞候補(第134回)となつた表題作、『群像』同年5月号に掲載の『一夜』の三作が収録されてゐる。まだ作家として収入もなくオンナの世話になり糊口凌ぎながら藤澤清造全集の編集に関はり(朝日書林による、結局上梓に至らず)毎月!月明日に能登七尾まで清造への墓参欠かさず菩提寺(西光寺)から清造の墓標譲り受け「清造忌」復活させ清造墓傍に賢太自身の生前墓まで建立。その上で作家として身を立て芥川賞受賞し清『根津権現裏』復刊(新潮文庫)とは。その賢太のオンナに世話になつた日々の「私小説」が、この『どうで』で、この妙な題は清造の「何んのそのどうで死ぬ身の一踊り」からとつたもの。それにしても献身的に自分を世話してくれるオンナに何かとあれば殴る蹴るのDVで読んでゐて忍びないが、この朝日の評者は、それでも「その文章は端正でリズミカルで美しい」「抜群に面白い」といふ。確かに小説として上手い。だが、そこまでオンナにひどいことをし尽くさねば見事な私小説は書けなかつたのか?と思ふとあまりにひどい話。悪事を尽くした上での懺悔かもしれないがオンナにとつては何の贖罪にもなつてくれないだらう。オンナに「アタシを犠牲にしてまで立派な小説家になつてくれて」と思はれゝば大したものだが、そこまでしなければ書けない小説などフィクションもフィクションすぎやしないか。ところで賢太の小説のなかでの比喩で「吉川英治の、痛風患者に湿布薬をあてがうみたいな格言」といふのには笑つた。

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明日のパラリンピック閉会式で北京冬季五輪閉幕。札幌が二度目の冬季五輪に名乗り上げるか否かと話題になるが中共は次はいつの名乗りなのかしら。中共統治による香港の繁栄を香港五輪で見せたいかもしれない。どうせ話題づくりなら香港に中共の科学技術で雪を降らせて香港冬季五輪でもやつてみては如何だらう。

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*1:梅香は居住者の名を町名としたもので佐竹氏の家臣岡本禅哲は太田在住のころから梅花を愛し宅地に梅樹数十株を植え梅香斎と号していた。佐竹氏の水戸入城と共にこの町に移り梅樹を植えて楽しんだことから梅香の町名が起こったといわれている。