富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

邱永漢

f:id:fookpaktsuen:20211216091143j:image

f:id:fookpaktsuen:20211216101226j:plain

陰暦十一月十三日。気温摂氏14.2/0.6度。晴。明け方の陋宅からの眺めは天気がよく朝日が眩しいくらゐだと一瞬、マレー印蘭紀行で光晴気分。コーランが流れてきさうな気がする。配水塔がモスク🕌に見えるから。この低区配水塔は昭和7年の建立で実にレトロモダンの美しさ。たかだか配水塔にこゝまでアートを組み込めた当時のセンスは大したもの。

邱永漢(1924〜2012)『わが青春の台湾 わが青春の香港』読む。これは1993〜94年にかけて『中央公論』誌に連載されたもの。大正13年に台南生まれ。英才で台北高校尋常科に入り日本に渡り東大経済学部入学。昭和20年に東大卒業して台湾に戻つたものの228事件*1などあり国民党に抗ひ独立運動企てた一派といふことで香港に脱出して日本に小包で生活必需品送る商売で成功。

わが青春の台湾 わが青春の香港 (中公文庫, き15-18)

日本への移住は昭和29年だが昭和25年に友人(王育徳)の日本居住権の判定での弁明書として在日台湾人としての窮状描いた「密入国者の手記」が昭和29年に小説として雑誌連載され日本に移住。小説『香港』での直木賞受賞はその翌年。

  • 日本の敗戦で台湾に入つてきた国民党軍の腐敗ぶり。日本人が提出した財産目録に「金槌」とあり担当官は目録から消去するやう命じて自分に持つてこさせたら黄金の槌ではなく、ただの鉄槌だつたといふ笑ひ話。
  • 邱永漢の父親は台南では成功した商人だつたが家は借家で家主は隣に住んでゐて父は逆にこの家主に金を貸しており家主が毎月その借金の利息を払ふと、そのカネから家賃を払つてもお釣りがきて、その方が自分で家を買ふより得だと思ふ考へ。東大経済学部で学んだ息子は世界恐慌を例に父に注意喚起するが父にしてみれば「東大なんぞ行つても商売のこともわからない」と息子の話に耳を貸さず。これが戦後の猛烈なインフレで家主の借金は実質大幅に目減り。借りたときは家一軒買へた金額が返済時はズック靴一足分になつたさう。現金に固守してゐた父がどれだけ資産を失つたか。
  • 荘要伝。台湾出身で朝日新聞の香港特派員をしてゐたが日本の敗戦で香港に戻り、その後、日本に移住して台湾独立運動に参画。
  • 邱永漢の妻の父親(潘逸流)は広東の潘高壽川貝枇杷軟(漢方の喉薬)の五男坊で香港に出て貿易商。

邱永漢は本当に運がよく二二八事件で捜査令状出ても香港に逃げ香港では素人商売でも成功し日本に来てからも文筆稼業の傍ら財テクも成功。1980年代前半にアタシは台北の中山北路を歩いてゐたら南京西路の角、東京なら銀座4丁目交差点のやうな一等地だが、そこに邱永漢大楼があつて、この邱永漢なる人はそれほどの財力もあれば、かつての反国民党の政治犯がまだ戒厳令も解けぬ台北でこんな力をもてるのかと驚かされた。

f:id:fookpaktsuen:20211216074821j:image

蘋果日報は停刊となりジミー黎智英は収監されも政府の容赦はなく仕打ちはまだ続き裁判所は蘋果日報や関連会社媒体の親会社たる〈壹伝媒〉社がもはや債務処理履行能力なしとして会社清算命令にまで着手。黎智英はその資本力にものいはせ蘋果日報も勢ひあり民主派世論盛り上げてゐたわけで刑務所から出てみればまさに手足もぎ取られたやうなもので何ができることあればやつてみろ、なのであらう。それで何かやればまた国安法で逮捕である。

*1:台北では反国民党の台湾人が蜂起して暴動となり外省人排斥。通行人を誰何するものゝ台湾人と同じ福建語話す外省人は区別が難しく、そこで出たのが「おい、君が代を歌つてみろ」。