富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

中村哲郎先生の著述について


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香港では防疫に「安心出行」アプリ利用必須となつてゐるが内地との往来復旧を目指すなかでアプリも統一されゝば感染検査や隔離制限緩和等に有益「といふことで」これまでの緩い「安心出行」に対して広東省で利用されてゐる「粤康碼」に対応する「港康碼」の導入決定。新型コロナのおかげで社会はこれまでそこまでできなかつた人々の行動管理や制限が自在になつた。感染は沈静化するときちんと更に怖い変異株が現れてくれる。なんて上手にいくのかしら。

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農暦十月廿三日。北陸や信州では雪。水府も朝は摂氏1.4度で昼も好天だが気温は12.5度までしか上がらず。銀座の大和屋シャツ店より誂へのシャツが届く。1ヶ月程お待ちをといはれてゐたが3週間。二度ほど洗つてからお店に寄つてほしいといはれてゐる。

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寒いので台湾には行けないし晩には酸菜白菜鍋を自宅でやつてみる。もともと満州や北支の料理が国民党によつて台湾にもたらされたもので白菜を酸っぱく漬けたものがあれば手軽な冬の鍋料理。

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渋谷の富ヶ谷といふと晋三を思ひ出してしまふのが難だが富ヶ谷には岬屋といふ和菓子やあつておひとの口に膾炙するのだが場所がちと不便で髙島屋とか伊勢丹にも岬屋の品が並ぶときもあるらしいが出会したこともない。
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久ヶ原の茶人T君から先日その岬やの粟羊羹をいたゞいた。粟といふから粟なのかと思つて粟でこんな上品な味と舌触りになるのかと驚いたら「粟」はこの羊羹に用ゐる上南粉(米粉)が粟っぽい食感なので、さう呼ぶのだとT君に教はつた。包装には一見「あ巳」だが「あわ」の「わ」の字は「王(わう)」からとつた変体かなださう。

歌舞伎の近代―作家と作品

中村哲郎『歌舞伎の近代』(岩波書店)を読む。このところ歌舞伎関連の本を随分と読んでゐる。1990年代後半に『演劇界』で長期連載されたもので一冊にすると大著。取り上げられた作家と作品は明治後期の紫紅、綺堂、桜痴から戦後の三島由紀夫から梅原猛まで60近く。近代歌舞伎についてよく知らないので、これを読んでみようと思つたのだが舟橋源氏だとか綺堂皿屋敷、桜痴素襖落などは挙げられてをらず再演などない作品もかなり多いが一作ですら見たこともなかつたとは。それにしても当時のさうした近代歌舞伎の作品に二代目左團次、十五代目(羽左衛門)や六代目など実によく役を勤めてゐたわけで戦後は何といつても大成駒まで。内容は知らない作家の知らない作品で作品の中身についてまではとても読みきれなかつたが哲郎先生の序「近代歌舞伎の軌跡と、創造者たちの確認」だけでも十分に読み応へあり。そのなかで幕末に来日したエドゥアルド=スエンソン『江戸幕末滞在記 』(講談社学術文庫)に江戸の芝居小屋の猥雑な場面についての言及あり、それを哲郎先生は「その頃、歌舞伎の邪悪な夜、淫らな闇の深さが限界状態にあり、演劇というものが堕落する時があるということを、われわれに如実に教えてくれる」と書かれてゐる。当時の芝居小屋は江戸や上方に限らずとも清末の北平の芝居小屋も泰西は倫敦、巴里も同様に猥雑だつたか。演劇が堕落したといふより淫らであつた演劇世界が近代に崇高なるものに芸術化されてゐつたのだらう。

評話集-勘三郎の死-劇場群像と舞台回想 (単行本)

哲郎先生といへば『評話集- 勘三郎の死 -劇場群像と舞台回想』(中央公論社)を随分と前に読了してゐた*1。いつも何か読み終はるとすぐ備忘で綴つておくのだが、この本はタイトルにもなつてゐる「勘三郎の死」*2をはじめ中村屋追悼のほかにも大成駒、三島由紀夫、堂本正樹先生から永山武臣さまへの回想、そして様々な舞台の記憶が京蔵さんの道成寺や新派までもう盛り沢山で何度も読み返してゐたので読書感を書くのも間に合はずにゐた次第。

昭和期の十一代目團十郎や六代目歌右衛門の理想は、結局“選ばれた歌舞伎”にあった。古典は古典として在らしめ、それとは別の地点、おもに文芸的な視角から新作を造った。ひるがえって平成の勘三郎の祈願は、文字通り衆人愛敬の“みんなの歌舞伎”だった。親しまれた従来の演目をうまくアレンジし直し、主要な場面を修整して歴史的ストックを活用、全体を新しい感覚で今日的に再生させたのが、いわゆるコクーン歌舞伎であり、また野田版・新作歌舞伎であった。(勘三郎の死)

著者が勘九郎(のちの18代目勘三郎)当時18歳と初めて会つたのは昭和48年初夏、高橋睦郎*3、水野隆両氏と東銀座の東急ホテルのカフェ。まだ少年臭さの残つた勘九郎は「僕、バニラをいたゞく」と注文する声が初々しく可愛かつたといふ。哲郎さんは記録映画『勧進帳』で六代目の義経が呼び止めでギクリとし半歩出た足が止まる下りがちょうど盤上にピタリと一石打つたごとく鮮明だといふ話を勘九郎にしたさうだが、その夏、三宅坂の小劇場での公演(杉の子会)で勘九郎初役の義経があり哲郎さんが舞台を見たあと勘九郎の楽屋を訪れると「この間のギクリ、今日はどうでした?」と訊かれたのだといふ。ちょっといゝ話。歌舞伎座の改築中に著者は中村屋平成中村座での〈助六〉上演を話し始めたのだが歌舞伎座が改築のため閉場されると勘九郎も体調崩し休演続きとなり、この中村座での助六は幻となる。還暦での実現も夢と終はつた。いくつもの回想のなかで中村屋播磨屋との関係が興味深い。家系では従兄弟であり血縁関係にある二人だが芸風の違ひもあり仲もいろ/\いはれてゐたが哲郎先生に勘九郎が「播磨屋のお兄ちゃんがいちばん巧いんだ、父もそう言っている」といつたことがあつたさう。その吉右衛門Ⅱも倒れたまゝ復帰も難しい。利倉幸一をして若い頃に「将来の歌舞伎俳優中、演技者としての資質が最も優れてゐる」と言はしめた播磨屋。日ごろ神保町の古書肆で劇書探す学究肌で哲郎さんは「ナミノは二人」で、かう書いてゐる。

彼は、一口に評すと、役者と言うよりも、文学者としての陰影を帯びている。内心を被う殻が堅く、自閉して己れを深く問う時間があり、ために外部からの接触が難しくなる場合も無いとはいえない。綻ぶ素顔は至近距離にしか見せないから、誰にも親しみ易いという人ではない。奥底が幽にして複雑なので、受け入れられるには月日を要する。このように観察すると血縁の同族とは言え、年下の勘九郎の開放性とは異なる遺伝子が強く、いや寧ろ対照的な正確の人間なのである。

その播磨屋も「三代目歌六の流れにある者たちは皆、芝居のやり方が同じなんです」と哲郎先生に語つたといふ。播磨屋中村屋の仲も気になり哲郎先生が「勘三郎さん*4もそうですか?」と訊くと「彼だって……」と播磨屋。もうこの言葉だけで播磨屋中村屋の贔屓としては、もう十分である。

初代(吉右衛門)の血を引く播磨屋の者は男も女も背が高い。のっぽで痩せている*5。ところが六代目(菊五郎)の方は逆に、背が低くて少し肥っている。彼がそうでしょう。

播磨屋は哲郎先生に笑つたさう。もう全てが昔のちょっといゝ話になりかけてゐる。なんと寂しいことかしら。

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*1:惜しまれながら他界した人気役者に追悼の書籍で「こんなあんまりにも明るいキッチュな表紙イラストはないだらう」と誰にも思はせないところが中村屋の素晴らしさ。「勘三郎らしい」。このイラスト(装丁)は当然のやうに横尾忠則先生である。

*2:この「勘三郎の死」の初出は『歌舞伎 研究と批評49』2013年5月号

*3:哲郎少年を勘九郎ばかりか三島由紀夫、松竹の永山武臣らに繋ぐのが睦郎先生である。ちなみに永山武臣三島由紀夫と同じ学習院で年も近いのだつた。

*4:勘三郎XVIIIは歌六IIIの孫で吉右衛門Ⅱは曾孫。歌六Ⅲの長男が初代吉右衛門でその娘・正子が幸四郎Ⅷに嫁ぎ次男が吉右衛門Ⅱなのに対して歌六Ⅲの三男が勘三郎XVIIで六代目の娘・久枝との間に久里子と哲明(十八代目)を儲けた。

*5:今の獅童が子どもの頃に背が高くなりすぎるので女方ができないと祖母ひな(時蔵Ⅲの妻)が嘆いたといふやうな話とか。