富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

神津朝夫『茶の湯の歴史』

f:id:fookpaktsuen:20211029072415j:image

すでに解散を決定しても香港の民陣に対して香港市役所は執拗に社団条例に基づく資料提出命令を出しており民陣がそれに応じておらぬが警察は組織解散でも刑事責任は免責にならずと強圧。20年近く香港で数十万人規模の市民デモを展開して世界中に香港の恥を曝け出し続けた憎き反政府組織。民陣が資料提出できぬのは活動資金の源泉の秘匿よりも組織の執行者の逮捕等で実際に組織運営が機能してゐないからだと思ふのだが。明報によれば警察の捜索は民陣の他に関連団体とされる社民連(政党)やLGBT運動の香港虹彩の事務所も含まれてゐて社団の認定は毎年で更新ができてゐるのに今更過去10年以上の活動内容であれこれ難クセつけられても、である。


f:id:fookpaktsuen:20211029131434j:image

f:id:fookpaktsuen:20211029131436j:image

スガ来水。週刊文春の分析でも茨城1区で「やゝ劣勢」の自民党候補の応援。この自民党候補の田所君は自民党絶滅危惧種の石破派で先の総裁選では河野太郎支持であつたからスガと党内での立場近し。首相岸田君の応援もあらうはずもなく「スガが来て票が伸びるどころか下手したら……」なんて危惧してゐる場合でもない「やゝ劣勢」で「スガをもつかむ」か。それにしても傾城水戸の前でこんな人出は見たこともない。それでもまだ通行できるほどだが。自民党の強い保守王国・茨城だが親自民の企業で動員かけたといふより「スガさんが来たから」で見にきた純良な市民多し。スガ登壇で少し批判も聞こえたがスガの演説に合はせ動員系の観衆から「そうだ!」といふ低い声。「私の政権は1年で終わりましたが」で、日本に必要なのは安定した社会と成長であつて、それができるのは自民党だけ、と。野党の野合で日米の安全保障体制を壊すような人たちもゐて(共産党のことだらうが)日本を任せることはできない、と宣はれる。かりに政権交代があつても共産党はあくまで閣外協力だし日米地位協定を覆すことなど代々木ですらできることではないのだが。

ちなみに岸田君だが街頭演説も面白味もないやうだが昨日の動静を見てみればチャーター機で驚きの羽田→青森→秋田大館→新潟→輪島→高松→羽田の行脚である。激戦区でのテコ入れなのか岸田派の支援なのか知らぬが自民党もかなり躍起。

茶の湯の歴史 (角川ソフィア文庫)

神津朝夫『茶の湯の歴史』(角川選書)読む。先日、突然に『 藤森照信の茶室学 』を読んでしまひ、それはそれで面白かつたが、やはりきちんとお茶をされてゐる方の本を読まないといけないと思つて図書館の開架図書で「茶道」の書籍を眺めてゐて手にとつて、そのすぐ後に偶然にも久が原T君に「解毒に」と紹介されたのが神津朝夫先生の著作で、これを読んだ次第。一言でいへば「良い意味で面白くない」。利休からの侘びと寂がへんに観念的に美学的、哲学的に昇華してしまつたり、後付けで利休の趣きが何から何まで意味づけされたり価値化されたことに対して神津先生はさうした概念的なことを一切払拭して地味に現実としてのお茶の歴史を徹底した文献の検証で説いてゆく。だから感動的なトピックスもなく「面白くない」のだが、それが良い。それでもやはり先生の矜持でどうしても言つておきたいことがいくつか述べられてゐる。

(利休から江戸初期までの当時の作法が)現代の作法とかなり違うことに驚かれたかもしれない。しかし、こうしたことは単に今とは違う過去の歴史という以上に、現代の茶人にも参考になることではないかと私は思う。つまり、露地や腰掛待合がなくても茶事はできるのであり、歴史的にみてそれが「正しい」方法だった時代もあったのである。そう考えれば、正式の茶事ができないと卑下したり、あきらめたりする必要がなくなる。

さらにいえば、たとえ「よい道具」がなくとも、本の写真に載るような「懐石料理」を出せなくとも、「侘数寄」の茶事をなさっていただきたい。決して稽古茶事ではなく、それも本番の茶事である。道具や料理を主眼としない茶事をしたとき、亭主と客はそこになにを見いだすのか。どうすれば、あるいはなにによって、主客はともに充実したときを過ごした幸福感、満足感を得られるのか。それこそが、侘数寄が、利休が、茶の湯に求めたものであった。机上の空論ではない「わび茶」の思想が、そこに実体をもって顕現するのではないだろうか。

どれだけ良い茶器や掛け軸があつてお作法が良くとも、まずはご亭主がどれだけ魅力ある人格か、であらうし、それゆゑどれほどの空間がそこにあるかであらう。その上で、その主人にもてなされることで得られるものの大事。何う考へてもスガが主人の茶の席など想像しただけでご免蒙るでせう。岸田君のお茶席もきつとつまらない。

(岡倉)天心はティーイズム(teaism)が「日常生活の俗事の中に存在する美しきものを崇拝することに基づく一種の儀式」つまり生活文化であると定義し、さにその「要義は『不完全なもの』を崇拝するにある」とわびの概念を説明している。また(略)「茶の宗匠たちはただの芸術家以上のもの、すなわち芸術そのものになろうと努めた」(天心『茶の本』)こと、茶人が自分たちの生活、人生そのものを芸術化していったことを指摘している。(引用は天心『茶の本』より)

茶の湯は、そもそもが日本になかった茶を飲む文化であり、唐物・高麗物、東南アジアの島物やオランダ渡りの道具に美を見いだして使う国際的側面をもっていた。日本文化をよく理解する茶人こそが、他国・他民族の文化に対しても、もっとも敬意を払える人であってほしいものだ。

久が原T君も自宅に結構な茶室まで構へる茶人だが西洋音楽からバレエ、オペラまでその造詣の深さにいつも驚かされるわけで、それこそ神津先生のいふところの茶人の本質であつて芸術なのだらう。