富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

ビートルズを知らなかった紅衛兵

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過往泛民經常點人數 上周審租管 一度僅7議員在席  - 明報
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香港立法会は定数70で定員半数つまり35人が出席しないと会議不成立。すでに民主派が辞職、免職で欠員28で議員数は42人なのだけど最も少ないときは7人しか議場にゐない立法会って。定足数不足だろ。だが「議員から議長に出席者のカウントを求める要求が出された時にカウントが行われ不足が判明したら会議は流会となる仕組み」(倉田先生談)で定足数不足を指摘する議員がゐないので会議成立。立法の形骸化とはまさにこれ。わが国といへば野党が議会開催請求しても政権与党が議会開かないといふ国会軽視。国民もそれを叱らないばかりか「建設的ぢゃない野党」と批難までする始末。

ビートルズを知らなかった紅衛兵―中国革命のなかの一家の記録 (同時代ライブラリー)

唐亜明『ビートルズを知らなかった紅衛兵―中国革命のなかの一家の記録』(岩波同時代ライブラリー)

著者の唐亜明さんは1983年に来日して早稲田大学文学部卒業、東大大学院総合文化研究科修了で福音館書店の編集者で多くの絵本の出版を手がけた方。まさに文革世代で、その家族の記録なのだがとにかくファミリーヒストリーが凄い。唐家は長沙の商家で祖父の代に事業失敗したが父親は画家になることを目指し戦前、日本に留学して日芸に学んだが当時、若者の間でマルクス主義広まり父(唐平鋳)もその洗礼を受けマルクス、エンゲレスの著作原本を読むのにロシア語を学ばうと東京外語で八杉貞利先生の門下に。大陸では中共の革命運動が盛り上がり平鋳は中国に戻り重慶の実家にも戻らず延安へ。旧家のしきたりで平鋳は日本留学前に16才で結婚してゐたが妻(陳友孟)も夫のゐる延安へ。友孟は中共の衛生課長となり平鋳は国府の臨時政府のあつた重慶を攻撃する中共第2野戦軍に加はり政治委員に。この師団は師団長が劉伯承で副師団長が鄧小平。国共内戦。夫婦は革命に身を投じ党員となるのだが平鋳は友孟との親の決めた封建的な結婚に疑問をもち友孟に離婚を提案するのだが子どももゐて幸せなのになぜ結婚見直しなのかと友孟は怒り鄧小平にまで!告訴して小平さんは平鋳が悪いとして彼を解放軍でも報道部に左遷。それが平鋳は記事執筆と編集に才能発揮して『解放軍報』で編集長にまでなるのだから。唐家は建国後の北京で負夫妻が解放軍の重要職といふことで解放軍官舎区で家政婦つきの生活。子だくさんで1953年に生まれた亜明は十人兄弟の六男。生まれたのが首都北京の協和医院で幼稚園が解放軍総政治部第1幼稚園で党幹部子女のための十一学校に進学。ソ連の軍司顧問用だつたダンスホールやテニスコートのある豪邸が官舎となり夏は北戴河で避暑なのだから十分に高級幹部家庭。反右派闘争は上司の羅瑞卿を批判する側となるなどして何うにか乗り切るのだが、このやうな経歴の党幹部はさて文革でどれほどの逆境が待つてゐるのか、と察するところ、平鋳は解放軍報で毛沢東思想の主張を展開したことで煮え切らずにゐて幹部失脚となつた人民日報の編集長職に抜擢される。しかしそれで安泰かといへば四人組の実権掌握でやはり平鋳は右派のレッテルを貼られ七年の軟禁。その間、友孟は極度のストレスもあり体調を崩し子どもたちは小学生から大学生まで皆、紅衛兵となる。亜明の学校の教員を吊るし上げる残酷さは子どもの時の小動物虐待のエピソードと妙に繋がる。文革が政治運動としては首都の幹部子弟の多い学校から始まつてゐること。兄弟たちにとつて文革のこの頃は親が経験したやうな弾圧に比べ無秩序ななかでの青春そのもの。下放での農村での過酷な農作業もこれも社会建設として従事してみせる。だが文革の混乱が極まり兄弟は鉄道切符を偽造して広州まで旅行したり怠惰といへば怠惰な日々を送つてゐるのが興味深い。父の平鋳は文革でこれほどの辛酸をなめても悪いのは林彪や四人組であつて毛沢東への信奉心は捨てることがない。文革のころも政治的判断仰ぐなど尊敬してやまない周恩来の死。名誉復活。亜明の日本留学に至る。