富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

自由という牢獄


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福島の親戚から毎年この季節になると美味しい「あかつき」の桃が届く。福島の菱沼農園のもので地元の人が選ぶ生産農家なのだから確かなのだらうと飯坂を車で通ると菱沼農園に寄るほど福島の果実=菱沼な感覚。

東京五輪ではスガも喜ぶ(これで支持率も上昇期待か)の日本選手の活躍。電通もさぞや嬉しいことだらう。今晩の卓球での混合が中国に競り勝ち初金で金メダル獲得数で日本が米国を抜きトップに。感染拡大防止を理由に今日これで東京五輪を前倒し閉会にすれば大変な偉業を成し遂げたことになる。

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バドミントンの男子シングルでは香港の伍家朗選手が香港規定のユニフォームを着用せず黒の上下であつたことが話題に(AFP)

本人は香港チームのユニフォームにあるスポンサー(ヨネックス)との契約期限の問題とするが香港の土共派の議員がこれを叱責。 五輪での政治主張は禁忌とされるながユニフォームを自分が黒色にすることはの規定違反にあらず。

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蘋果日報廃刊で連載もなくなつたものゝブログで歯に衣を着せぬ筆致が復活の陶傑先生曰く

鄧小平似乎告誡過:不管黑貓白貓,能捉到老鼠的就是好貓。若忠誠廢物群族學習鄧小平理論透澈,只須啟動平均65的大口環智商,就能以鄧小平理論演繹出一套even 是中國式的邏輯:對於伍家朗這件衫,「不管着黑衫白衫,只要是Made in China,就是一件愛國運動衣。」(陶傑)

鄧小平の有名な「白猫でも黒猫でもネズミをとる猫は」引用して「黒シャツでも白シャルでも中国製であれば愛国スポーツウェアだ」と皮肉。 

京大の山極学長先生の、まさに胸の閊へが失せるやうなゆるやかな発想。

ゴリラもよく遊ぶ。取っ組み合ったり、追いかけ合ったりして、ときには短い休止を挟んで1時間以上も遊び続けることがある。互いに高いところに上って胸をたたき合う「お山の大将ごっこ」や、数頭が数珠つなぎになって歩く「電車ごっこ」に似た遊びもある。遊びの特徴は、経済的な目的を持たず、体の大きいほうが自分の力を抑制して小さいほうに合わせ、互いに役割を交代するところにある。
身体を同調させる楽しさを追求する中で、こういったルールが自然に立ち上がる。人間の遊びもこのルールを踏襲しているし、スポーツの原則もここにあるのではないだろうか。相手に勝つことが目標ではなく、互いに立場を交代しながら競い合い、そのプロセスを楽しみ、勝ち負けにこだわらず健闘をたたえ合う。いっしょにスポーツに興じたことによって、よりいっそう信頼できる仲間となる。観戦者もこの同調の輪に巻き込みながら、スポーツは私たちの社会を和ませ、新たなきずなをつくることに貢献してきたのだと思う。
しかし、最近のオリンピックは……

アタシ自身スポーツ観戦の趣味はないが今回の東京大会で柔道の阿部兄妹、プレーヤーたちのゆらぎが目新しいスケボーの世界、ロシア(ROC)と日本の体操男子団体の競ひあひ、それに卓球で水谷・伊藤ペアの姿など……見てゐて本当に素晴らしいものだと思ふ。観戦者がその喜びに巻き込まれることのスポーツのすごさ。だからヒトラーにせよ電通にせよ、そこに政治利用のメリットやとんでもない商機を期するのだらう。

大澤真幸自由という牢獄岩波書店第1章(表題)だけ読む。

自由という牢獄――責任・公共性・資本主義 (岩波現代文庫)

季刊『アスティオン』49号(1998年夏)に連載されたもの。自由な社会は理想的であるはずなのに、なぜそこに束縛があるのか。「自由はむしろ拘束をこそ前提にして可能になる」といふパラドクス。理想社会をむしろ社会システムとして意図的に構築しようとしたのが社会主義であり、その失敗と現代では自由に対する唯一の制限が環境問題。このまゝの野放図な自由を地球すら破壊しかねぬからの制限。自由に付随する責任から、それを免除する束縛として宗教の戒律やナショナリズムがある。それに身を委ねることでの自由といふ束縛からの解放。昭和の<近代の超克>といふ発想など、まさにそれだらう、あの居心地の良さ。しかし「それに甘んじたくない」となつた場合に、この自由の束縛と何う対峙してゆくか、が現代人の課題なのだらう。それにしても、こんなことを深刻に考へてゐるのは旧世代の輩ばかりで今の若い世代はそんな束縛すら感じないのかしら。東京五輪で活躍する若者たちを見てゐて、ふとそんなことが気になつた。