富柏村香港日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴る日剩でござゐます

東京五輪まであと34日


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新型コロナの疫禍で(といひつゝ国安不安で)疲弊した社会にあつて市民への慰安と経済刺激で香港市役所が成人市民1人あたりHK$5,000(7万円)支給は電子マネーで2:2:1だかの分割支給で最初の2を使ひきると次の2が支給されるルールださうで確かに、これだと貯蓄に向かない点は合理的なのかも。電子マネーは香港で普及してゐる4つが対応するが香港地元のオクトパスの対応がよろしくないと叱る大公報。オクトパスは交通カードとしては世界に先駆けて成功しノウハウは世界各地に拡大で小売店での消費に使へるところまでは順調だつたが小売店が導入は面倒で個人間での出納など中国の(路上の野菜売りや物乞ひまで利用する)アリペイや微信に遅れをとつてしまつた。オクトパスは小売店などが利用の場合、所定のマージン利益を重視したがアリペイや微信など、さうした点は譲歩してむしろ、このシステム内で動くマネー量、その運用等に活路を見出したところが大きな違ひか。一昨日の蘋果日報管理層の逮捕で早くも今日公判始まる。このな迅速な公判開始は警察と検察がどこまでお膳立てが出来てゐて裁判官も中立など眼中にない政府寄りでオチャラカ裁判ゆゑ。

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ちょっとしたことだが「綴じ紐」の結び方が気になつた。解き易いやうに蝶結びにするが緩み易いし紐の結び目の大きさと厚さが気になる。調べてみると「ぎょうせい」でちゃんと綴じ紐の結び方があつた。これでやつてみると結び目は細く美しいが余つた紐の処理が、これぢゃ何だか。そこで余つた紐を後ろに通してくるくる、としてみた。如何かしら。

(一昨日の補記)市街にある大きな産婦人科病院の通りで自転車に乗つた知己の老舗だんご屋のご亭主に遭遇するときがある。この産婦人科で妊婦の出産があると翌朝にお赤飯を出してお祝ひするのださうで朝早く出来立てのお赤飯を届けるのださう。このだんご屋にちょっとご無沙汰してゐたので昨夕寄つて草餅とかしわ餅を買ふのに手持ちの弁当箱(タッパー)を出した。ご亭主は私が外で遇うばかりで店に来ないのを私が気遣つて来たと察したらしく「わざわざ寄ってくれて」と2つ残つてゐた「おにぎり」をタッパーの上に置いて「そんなお気遣ひなく」と私がいふのにさっさと私が広げてゐたお弁当風呂敷を包んで「はい」と渡された。恐縮しつゝ店を出て家に帰つて開けたら和菓子は店の透明フードパックに。ご亭主は私のタッパーに気づかなかつたやうだ。これでアトでタッパーを取りに行くと「昨日はごめんなさい」で、また団子か何かをタッパーに入れられてしまふのだらう。余計に悪いことをしたことになる。商店街はかうしたことが楽しいのだが。


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昨夕は家人と郊外の住宅地にある接骨院に行つたので、その帰りに外食となつたが疫禍で開いてゐる店も限られ国道沿ひの「てんや」へ。5、600円でこれだけの天丼を出すのだから大したもの。コンビニで最近評判なのだといふ麒麟の発酵レモンサワー入手。確かにレモンは他にないレモンらしさだがレモンが強すぎて焼酎のサワーを飲んでゐる気がしない。焼酎と炭酸とレモンがアンサンブルになつてゐない気が。 

小林信彦私説東京繁昌記』読了。この本はタイトルはわかる人にはわかるが寺門静軒『江戸繁昌記』があつて木村荘八『東京繁昌記』があつて、それに肖り小林信彦さんは『私説』を書いて中央公論社の『海』1983年6月号から翌84年5月号(この号で『海』は廃刊)に連載されたものが元。その年の9月に単行本になつたが8年後の1992年に、この『新版』として筑摩書房から出たのが、これ。新刊では『新版私説東京繁昌記』だつたが文庫化されて「新版」は削られたやう。

私説東京繁昌記 (ちくま文庫)

戦後の東京の風景にどこか影があることに著者はこだわる。1964年の東京五輪直後の小林信彦の書き残したものに、かうある。

東京は、アメリカの爆撃機による破壊の跡を二十年かかって人為的に破壊し、混凝土のスラムを作ったのだ。薄汚れて底冷えのする巨大なスラム街を。

これを建築家の石山修武はさらに時間軸で深読みしてゐる。小沢信男の『東京骨灰紀行』より更に陰鬱だ。

東京の町の風景には独自の後ろめたさがある。アメリカの都市の風景にはない陰惨さがあるのだ。それが江戸の町を殺したという親殺しの記憶にも似た奥深い原罪意識であることはいうまでもない。

それでも小林信彦だから小林信彦ぢゃなけりゃ書き残せないやうなことがこの本の随所にある。例へば日比谷線が開通したとき著者は六本木に住んでゐたのだが霞が関に所用あり日比谷線開通の日にそれに乗つたさうなのだが「六本木」の駅のアナウンスで六本木の「木」が東京の鼻母音の「ぎ」ではなく気が軋むやうな「GI」と発音されてゐたことに、さういふ時代の到来を感じたといふ。東京がもう昔からの東京ではなくならうとしてゐたのだ、当時。新宿を子どものころに初めて知つたのが「都新聞」の映画案内で、新宿の伊勢丹の新館(今のメンズ館)を信販の「丸物」で2階にフランス座があつたと覚えてゐる人なのだ。

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それにしても驚いたのはアラーキー先生撮影のこの新宿南口の甲州街道沿ひの風景。とても昔で昭和30年代のやうだが驚くなかれ、これが1983(昭和58)年。バブルの前はまだこんな風だつたのだ。階段の上に昭和3年の昭和天皇即位の御大典記念碑が建つてゐる。

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東京の「再開発」は著者曰く〈街そのもの〉で今はその跡形もなく新宿駅東南口で商業ビルが建つて賑はつてゐる。さう、このあたりは戦後の闇市からの光景を色濃く残してゐたのだ、バブル迄は。路地を曲がると台北飯店があつて、酒場の日本晴とおでんの五十鈴があつた。アタシが結婚前の家人と待ち合はせが日本晴だつた。新宿の南口〜東口の戦後の風景がこちらのサイトで思ひ出すことができる。三橋順子さまもご自身のブログ(続々たそがれ日記)で「新宿駅東口にあった、おでん屋「五十鈴」について」を書かれてゐる(こちら)。80年代の新宿 – 善本喜一郎を拝見すると「ポニータ」なんてヌードスタジオとか懐かしいところだが甲州街道から北側はまだ普通に歩けたが昔は南側(旧旭町)はやはり一寸そぞろ歩きしない場所であつた。

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久々に水戸芸術館のパイプオルガンプロムナードコンサート。バッハの曲こそAIが作曲したら、かういふものを作つてみせるのではないか?と思へた。AIがドビッシーとか、さらにショスタコーヴィッチとか作曲できるやうになつたら大変なことだ。

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秋田の榮太棲「さなづら」をいたゞく。山形の、そして水戸の「のし梅」があるが、こちらはヤマブドウなのださう。