富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

東海村に火灯る


f:id:fookpaktsuen:20210319061942j:image

f:id:fookpaktsuen:20210319061939j:image

民主派を弾圧するばかりか反政府組織「民陣」をなぜ19年も取り締まれなかつたのかと香港市役所を叱る大公報。民陣を放置しなければ2003年からの、あの十万人単位の大規模な抗議デモは起きなかつた、といふわけだが果たしてさうかしら。アラスカでの米中交渉。米国の姿勢を「中国制裁ではなく民主弾圧への抗議」と支持する蘋果日報

f:id:fookpaktsuen:20210320115544j:plain

The fallout from Hong Kong - How to deal with China | The Economist

できれば「中共とつきあはずにゐたい」といふ発想は誰にでもあるのでは。だが中共があることによつて中国が安定してゐるといふパラドクス的な妥協も。

f:id:fookpaktsuen:20210319081531j:image

水戸地裁が東海第二原発再稼働認めぬ判決(昨日)。日本の三審制は地裁が画期的判決で高裁がそれを否定して最高裁が差し戻しだとか裁定さけ「うやむや」のイメージあり、さう思ふと楽観はできないが原発の安全性は具体的に国民の命にかゝはることで上級裁も日米安保案件のやうな「忖度」もないのかしら。

f:id:fookpaktsuen:20210320105753j:plain

それにしても30㎞県内に94万人なのだといふ。水戸の人口が27万人で全国の県庁所在地では小さい方だが隣接する市町村だけ含めると57万人になるわけで郊外がだだっ広い商圏。なぜこんな人口密集地に原発なのか。こゝは今でこそ、だが日本に原子力の火が灯つた当時は浜通りなど同じ関東でも千葉からの神奈川にかけての工業地帯から見たら未開発の地。

東海村・村上達也村長インタビュー(2012年1月22日)朝日新聞 

日本原子力研究所が村にできると決まったのが中2の時だった。舗装もされていなかった国道6号を土埃をあげて次々と車がやってきて、そこかしこで工事が始まった。太い道路が造られ見たこともないコンクリートの団地が並び立ち研究者がどんどん移り住んだ。様変わりする村をわくわくしながら見ていた。
原子力というものも無条件に輝かしいものだった。まだ戦後10年で米国の存在は絶対的。その米国がもたらす原子炉は、少年にとっては夢と希望だった。その日本初の立地場所に東海村が選ばれたことが、誇らしかった。
(村民は受けいれに)こぞって賛成だった。誘致に奔走した当時の村長や村議、役場職員はずっと誇りにしていたし今でもそうだ。村民の8割が農家で、かやぶき屋根ばかりの風景に別世界がやってくるわけだから。

それにしても何故に東海村に日本で初めての原子力の火が灯つたのか。311の地震のあと「反原発」を社是と鮮明にした朝日新聞が茨城版で東日本大震災から1年後の2012年に興味深い連載をしてゐる。貴重な記録で当時かなり話題にもなり連載終了後に刊行もされてゐる。

『それでも日本人は原発を選んだ 東海村と原子ムラの半世紀朝日新聞出版

正力松太郎、中曽根大勲位ら中央での主導、それがなぜ茨城に結びつくのか、が興味深い。

原子のムラ(第1部)東海村に火灯る(1)「 55年前 希望の産声」(朝日新聞)

原子力研究所有力候補地に水戸海岸・米軍演習地を選ぶ」昭和31年1月17日、朝日新聞茨城版トップに大きな見出しが躍った。前年に発足した原子力研究所の建設候補地に、勝田市那珂湊市東海村にまたがる米軍の爆撃演習地(現:国立ひたちなか海浜公園)があがっているという特ダネ記事だった。(略)昭和29年3月2日、野党改進党議員の中曽根康弘らが突如、原子炉製造補助費を含む初の原子力予算案を国会に提出した。寝耳に水の科学者らの衝撃を新聞は「原子力予算知らぬ間に出現 驚く学界、こぞって反対」(3月4日付毎日新聞)と報じ、「いったい、どこの、だれが、日本で原子炉製造計画を具体的に持っているか」(同朝日新聞)と批判した。が、翌月に予算案は審議未了で自然成立した。(略)建設地選びの準備は昭和30年7月から経済企画庁原子力室で始まっていた。考慮されたのは国有地で土地が、東京から近いこと。全国22カ所に及んだリストは原研の土地選定委員会によってふるいにかけられ千葉県習志野市、神奈川県横須賀市武山、群馬県高崎市と旧岩鼻村、埼玉県川越市、そして茨城県の米軍演習地に絞られた。

東海村長・川崎義彦(当時)はこの(候補地の)記事に「仰天した」と回想しているが動きは早く、米軍基地では将来の土地返還を待たねばならず川崎は基地に程近い村松地区の国有林があると腹案を拵へ茨城県知事に直談判したが知事は非積極的で村長は単独で誘致まで決心。その朝日記事から2週間後には政府の土地剪定委員会が演習地視察のため来県。県も誘致に食指動かし本来の視察場所に入つてゐない村松の「第二地区」も紹介。「東海村が原研の建設地に一歩躍り出た」。

 原子のムラ(第1部)東海村に火灯る(2)「 村長の決断」 

当時人口は11,583人。1世帯平均6.2人で、第1次産業従事者が75%を占めた(1955年国勢調査)。養豚業が盛んで人より豚の数が多かった。「村長は貧乏な村から脱却できると思って原子力に飛びついた」。当時の村議、豊島勝一(86)は語る。「もちろん、議会も全員賛成だった。村長の言うことに全く抵抗せず、誘致の話はスラスラと進んでいった」。

原子のムラ(第1部)東海村に火灯る(3)「 村議会も賛成」

原子のムラ(第1部)東海村に火灯る(4)「 村民への啓蒙活動」

原子のムラ(第1部)東海村に火灯る(5)「降ってわいた原研候補」

原子のムラ(第1部)東海村に火灯る(6)「 県の誘致戦」

原子のムラ(第1部)東海村に火灯る(7)「熾烈な誘致合戦」

原子のムラ(第1部)東海村に火灯る(8)「覆った最適地・武山」

原子のムラ(第1部)東海村に火灯る(9)「正力の閣議欠席」 

原子のムラ(第1部)東海村に火灯る(10)「正力何度も「東海村」主張」 

原子のムラ(第1部)東海村に火灯る(11)「茨城と正力をつなぐ糸」

正力と茨城をつなぐ糸は誘致を争った群馬や神奈川よりも確かに太く幾重にも織りなされていた。水戸市内原町に農業を志す青少年を養成する日本農業実践学園がある。この学園の前身「日本国民高等学校」を開いた加藤完治は戦中、満州開拓移民が多数輩出する青少年義勇軍訓練所を設け「満蒙開拓の父」と呼ばれた。加藤が明治35年に入学した旧制第四高等学校(現金沢大)の2年後輩に正力がいた*1。(略)加藤は四高卒業後、東京帝大工科大学応用化学科に入学。同じ学科の同級生に経団連初代会長で正力と原研の東海村設置を決めた原子力委員の石川一郎。一方の正力はその1年後、東京帝大の法科大学に進んだ。水浜電車社長、茨城交通会長を務めるなど戦後茨城経済界の重鎮となった竹内勇之助も四高、東京帝大法科で正力と先輩後輩の間柄。

こゝでも加藤完治(1884~1967)が鍵を握つてゐるとは。

原子のムラ(第1部)東海村に火灯る(12)「 首相狙う正力、米国を利用」

原子のムラ(第1部)東海村に火灯る(13)「正力、発電への執念」

科学技術庁長官となった正力は昭和32年夏、東海村に設置する日本初の原発運営会社の形態を巡り国家主体を唱える経済企画庁長官の河野一郎と対立する。自分を支持する電力業界が主張する民間主体で押し切ったものの自らの派閥のボス(河野)に刃向かった代償は大きく、その後二度と入閣することはなかった。民間が事業主になりながら国が安全管理や事故賠償の責任を実質上負う……「原子力の父」正力が導入したこの仕組みの矛盾は福島第一原発事故後に噴き出すことになる。一方、中曽根は後に河野派の大半を引き継いで派閥の長になる。当時の中央政界の事情を知る数少ない生き証人の中曽根は原発事故後、メディアに沈黙を貫いている。朝日新聞の取材依頼に中曽根事務所は「いま原子力について発言することは色々なハレーションを起こす。世の人が冷静に受け止められる時期がきたら、話せることもあるだろう」と答えた。

産業会議が昭和32年に刊行した『原子力年鑑』は立地問題について「決定に関しては必ずしもすっきりとしたものでなかったことは事実であるが(略)ながい目でみるときは、かえって好い結果となるものと信じられている」。尊重義務のある原子力委員会の決定を覆したことの是非や「公開・民主・自主」の原則が歪められたことへの言及はない。

原子のムラ(第1部)東海村に火灯る(14)「疑問の声、村内に少数 - 茨城 - 地域情報

そのころ建設地の南側にある国立療養所「村松晴嵐荘」の患者自治会が理論物理学者の武谷三男の講演会を開いた。ここには放射能の空気汚染を心配する結核患者らがいた。武谷は早くから性急な原子力開発を批判し、放射能の生物への悪影響を指摘していた。「放射能を出さない原子力施設はない。事故が起これば大変なことになる」。

原子のムラ(第1部)東海村に火灯る(15)「広がらない反対論」

原子のムラ(第1部)東海村に火灯る(16)「茨大生、村民の意識探る」

原子のムラ(第1部)東海村に火灯る(17)「村民7割 危険を意識」

原子のムラ(第1部)東海村に火灯る(18)「率直な本音が聞けた」

*第19回については後述

原子のムラ(第1部)東海村に火灯る(20)「原子力県民にふさわしく」

原子力研究所の建設地が東海村に決まった2日後。昭和31年4月8日の朝日新聞茨城版は「東海村は原子炉ブーム 地代はとたんに値上り」との見出しで建設を歓迎する村民の表情をおもしろおかしく伝えた 「いまでは地元の農民や漁民はもとより、しらがのおじいさんや小学生までが原子力に関心を持、『ああだ、こうだ』と夢のような原子力談義に花を咲かせている」。10日後の茨城版では「地元に住むわたくしたちは少なくとも『原子力県民』の名にふさわしいだけの知識を身につけておきたい」「わずかの燃料で何年も運転を続けることができ、しかもススも煙も出ないから快適だ」。放射線は「放射線を有効に利用すれば私たちの生活にはかりしれない恩恵を与えてくれる」。

原子のムラ(第1部)東海村に火灯る(21)「科学技術の「善」宣伝

昭和31年12月、県内に「郷土のほこり」と題したパンフレットが配られた。翌年に水戸市で開かれる「原子力平和利用茨城博覧会」を記念し朝日新聞が作成。「朝日新聞社は二人の科学記者を水戸支局に常勤させて、この歴史的な建設工事の報道に当らせています。『原子力県民』としてのほこりをもって、工事を見守りましょう」。昭和32年の元日から始まった博覧会には36日間の会期で、県民の1割にあたる22.7万人が来場。「原子力ようかん」「原子力まんじゅう」が土産として売られた。
 博覧会の皮切りは昭和30年11月、読売新聞社と米広報庁が共催し東京日比谷で開いた。この年の新聞週間の標語は「新聞は世界平和の原子力」。(略)博覧会では、原子炉の模型や人間の手の動きを再現する「マジックハンド」などが展示され、科学技術が開く明るい未来をアピールした。原子力の危険に触れることはなかった。第五福竜丸被曝で高まった原水爆禁止運動や放射能の脅威への警告をメディアはキャンペーンでかき消していった。(略)戦中の非科学・非合理性への反省と、科学技術立国としての復興の姿とが重なり合っていた。「科学の素晴らしさを伝えるのが我々の仕事」。(略)さらに「平和利用」という言葉に、絶大な効果があった。原水爆は「悪」で平和利用なら何でも「善」――そんな二元論も支配的だった。 「軍事利用の原爆で負けた日本人にとって、平和利用という言葉は麻薬だった。自分もその麻薬に酔っていたんだろう」。
朝日新聞が「科学部」を設けたのは原子の火が東海村に初めて灯った1957年。

原子のムラ(第1部)東海村に火灯る(22)「報道による原子力ブーム」

原子のムラ(第1部)東海村に火灯る(23)「代表地元紙も積極推進」

茨城新聞(社説)「原子力センターとなるわが茨城」昭和31年2月16日

第一の不安は原子爐が爆発することがないかということ(と前置きしつつ)米英ソ三大国の代表が発表したところによると絶対爆発しないという保障はすべきでないかも知れないが科学者、技術者の最新、周到なる科学技術を怠らぬ限り事故は起こりえぬもの。われら県民としては単に目先の利害打算に捉われず大乗的見地に立って本施設建設に全幅的に協力し(略)原子力日本の先駆的役割を果たす心がけこそ人間社会の改善と世界平和の繁栄に寄与する道に通ずることを自覚すべきであろう。

原子のムラ(第1部)東海村に火灯る(24)「華々しく平和利用博」

原子のムラ(第1部)東海村に火灯る(25)「教育現場でも啓蒙」

原子のムラ(第1部)東海村に火灯る(26)「学校でPR映画」

原子のムラ(第1部)東海村に火灯る(27)「研究員採用に不透明さ」

原子のムラ(第1部)東海村に火灯る(28)「寄せ集められた1期生」

原子のムラ(第1部)東海村に火灯る(29)「炉の組み立て試行錯誤」

原子のムラ(第1部)東海村に火灯る(30)「原研1期生 55年目の総括」

「公開・民主・自主」からほど遠い地点で成立しながら学界の意思を映し三原則を尊ぶ伝統を守ってきた原研は「原子力ムラ」で次第にその相対的地位を低下させていくことになる。一方、東海村はその後、発電炉、核燃料工場、再処理施設などが集積し「原子力村」として順調に発展を遂げる。村史は1992年発行の「原子力と不可分の村のあり方は今後とも堅持されることは疑いない」の結語のまま変わっていない。

それがずいぶんと原発を巡る考へ方は変はつたもの。そのために福島核禍のあれほどの代償があつたのだが。

それでも日本人は原発を選んだ 東海村と原子ムラの半世紀

(この連載の第19回について)通常かうした人気シリーズ記事はまとめられてゐるはずなのだがインデックスは「お探しのページはみつかりません」になつてしまふ。検索をかけて一つ一つ拾つて検索に掛からない回は前後のURLから類推までして探してみた。何うしても第19回が見当たらない。18回と20回はそれぞれ

http://www.asahi.com/area/ibaraki/articles/MTW20120126081170001.html

http://www.asahi.com/area/ibaraki/articles/MTW20120128081170001.html

なので19回は

http://www.asahi.com/area/ibaraki/articles/MTW20120127081170001.html

のやうだがさうではない。

*1:加藤と正力は共に柔道部に所属で部長を務めていたのが『善の研究』で知られる哲学者で当時四高のドイツ語教授の西田幾多郎