富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

ウンコはどこから来て、どこへ行くのか


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香港でのワクチン接種、大公報は安全を宣伝し蘋果日報は糖尿漢がワクチン接種後2日で死亡隠しと叱る。

湯澤規子『ウンコはどこから来て、どこへ行くのか』(ちくま新書) 読了。「人糞地理学ことはじめ」と副題の通り、我々にとつてのウンコを語る。子どもがなぜ「ウンコ、ウンコ」とウンコに異常な関心を示し漢字や計算のドリル教材までウンコにすると当たるのか。人間の身体ぢたい

台所で食物をこしらえてこれを食い、消化器の末端からこれを便所に排出する、といった順序を、私たちは毎日繰り返しているわけである。してみると人間というものは、建築的にいえば、台所と便所をつなぐ一種の管みたいなもので、私たちはこの管を維持するために、毎日あくせく働いていることになる。

といふわけで、この藤島茂*1による定義は見事なもの。農作で人肥として有効活用された糞尿で、フール(豚便所)のやうにヒトの排泄がその場で豚の餌となる高度な循環すらあり。日本ではかつて琉球地方にフール多く中国ではアタシも1980年代に黒竜江省の田舎を旅してゐて招待された家のトイレで便意もよおし屋外の便所の小屋でウンコをしたら床下にブタが集まつてきて、あれには思わず出るものも出なくなるほど驚いた。近代の大都市化は人肥の需要を超へる大量排泄の時代を迎へ人肥=黄金といふ「商品」から無用な廃棄物となる*2。それでも鉄道列車では排便されたウンコがそのまゝ線路の敷石に落とされ、その線路をローカル線なら子どものころは遊んでゐたのだ。ウンコをまだ排除しない世界。それがウンコは自分事から他人事へと転換されてゆく。かつては汲み取り式の便所で下を除けば糞尿があつたものが水洗トイレの普及で糞尿は即座に流され「何事もなかつたかのやう」に。更に排便世界を革命的に転換したのは1981年のウォシュレットの登場。排便後、ウンコは貝原益軒『養生訓』ぢゃないが目視して健康状態を見るべきところ排便された瞬間に水に流されトイレットペーパーで拭けばウンコがトイレットペーパーにつくがウォシュレットで排便後即座に肛門が洗浄されトイレットペーパーはシャワーの水分をふき取るだけに。今では排便でウンコを一切見ることもなく用が済んでしまふ時代に。それでも石油ショック、そして昨年のコロナ禍でトイレットペーパー不足が不安視されると市民がトイレットペーパー買ひに走る。湯澤先生曰く、もうトイレットペーパーはウンコを拭き取るといふ使命がないのに未だに我々は「ウンコを拭きとれなくなつたら」といふ不安がトラウマになるのだらう。

限りなく除菌・抗菌・減菌・無菌に近づく世界を目指し、ウンコと決別しようとする私たちはしかし、じつは現在でも菌による絶え間ない分解活動が、私たちがウンコをし続ける世界に生きることを可能にしてくれていることを知らないままなのである。(略)

「きれい」「クリーン」、「衛生的」と聞いただけで疑うことをやめてしまった時に閉ざされる未来への可能性。「汚い」という認識と一言で、モノや相手を退けてしまうことをやめた時に、初めて見えてくる未来への可能性。それは「不潔」と「清潔」という二項対立の問いでは決して解けない、そのあいだにある深淵な世界の存在に目を向けること、私たちもまた、その予定調和ではない、雑多で清濁入り交じる世界の中で、膨大な「いのち」の受け渡しを担う一員にすぎないのだと自覚することから始まる。

なんて格調高い思考なのかしら。そしてこの思考は前述の「台所と便所をつなぐ管」に繋がる。

ウンコはどこから来て、どこへ行くのか ──人糞地理学ことはじめ (ちくま新書)

「ウンコ」といふキーワードでふと思ひ出したのは高橋睦郎『善の遍歴』であつた。作者を彷彿させる青年が上京してからの奇想天外な愛と善の物語なのだが、そのなかに新宿の汚い公衆便所を悪所とする若者とその息子を探す父の一遍あり。さすがにアタシもフィクションとはいへ、その肛門、排泄、汚穢の連鎖の奇譚に強い印象あり。

*1:東大工学部卒の旧鉄道省技師で駅舎のトイレ問題を担当。昭和35年文藝春秋から出た著書『トイレット部長』は評判に。

*2:興味深いのは人肥となるウンコは自然の産物であるべきで現代人のケミカルな物質多きウンコは人肥としては失格なのだといふ。