富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

武肺一年


f:id:fookpaktsuen:20210115073728j:image

f:id:fookpaktsuen:20210115073732j:image

香港から台湾に密航企てた民主派人士の密航幇助といふ罪状で11人の弁護士や活動家、市民が逮捕される。密航幇助なら通常なら入管法違反程度だが国安法である。

f:id:fookpaktsuen:20210117095714j:image

コロナ禍で1年。さまざまな人の考へ方や身構への優劣、性根まで見えてしまふ1年。頭がおかしくなりさうな気もするが『感染症と文明』(岩波新書)の著者・山本太郎先生。この方はウヰルスのことを語ると医学者から思想家、そして最後は宗教者とすら思へてしまふ。 

f:id:fookpaktsuen:20210115073816j:image

どのようなウイルスが流行するかは社会のあり方が決めます。農業が始まって定住人口が増えたころ野生動物の家畜化が進み人と動物の距離が縮まり感染症はいっきに増えました。そして今、半世紀ほどの間に新興感染症がすごく増えています。道路やダムの開発による熱帯雨林の縮小、地球温暖化もあいまって再び野生動物と人の距離が近づいたことが原因といえます。「本来あるべき姿にない状態への警鐘」ととらえるべきでしょう。ウイルスはいつの時代も存在しているが、パンデミックになるかどうかは人間側の要因で決まるのです。(略)グローバル化、都市の巨大化、人の動きの活発化。これらの条件が合わさり増殖したのが現在の流行です。100人ほどの集団が木の実や貝を拾う生活をしていた時代の暮らしは、まさに「疎」。いまいわれる「密」の反対です。ウイルスが集団に入っても世界的流行に至ることなく消えていったことでしょう。

佐藤忠男先生の健筆。卒壽。さらりと映画の筋をネタバレにならないところで、その作品を見たくなるところまで紹介で、さらりと「自分の考へたこと」を述べる。感想ではない。何を考へたかがわかる。先日、畏友村上湛君と話してゐて評論であるべきものが感想や自らの「思ひ」になつてしまふものがあることについて考へる機会あり。

(追悼:半藤一利)保阪正康「昭和史の誤りを克服、継いでいかねば 」朝日新聞

半藤一利を語る上で適役はこの人だらう。ふと思ひ出したが粕谷一希だつて保守派といふのは今の体制派と一緒にしては失礼な良識であつた。

記憶に残るエピソードといえば1989年にベルリンの壁が崩壊したあと奥さんと一緒に壁を見に行ったそうだ。壁の前に立ったとき体が自然と能の舞を始めた。すると周りに人だかりができて終わったら拍手が起きた、と。「恥ずかしくなかったの?」と僕がきいたら「うれしくてね」。東西冷戦が終わったという感慨の大きさをうかがい知った。
平成のころ2人で天皇皇后両陛下(現上皇ご夫妻)にお会いしたことも思い出深い。天皇とすでにお会いしていた半藤さんから「雲の上から声がかかったけど一緒に行くか?」と誘われご進講ではなく歴史に関するお話をしに何度か皇居へうかがった。天皇は歴史に深い関心を持たれていて半藤さんが天皇のご質問に真摯に答える姿が印象的だった。そのような場で半藤さんは「象徴としての天皇」を心から理解したのだと思う。そして昭和天皇を神格化した軍事指導者の政治的無責任さを痛感したはずだ。
2人で進めていた運動がある。九条の会の護憲とは少し違い、より現実的に今の憲法を100年もたそう、というもの。お互い講演のときに呼びかけようと約束していた。組織や事務局があるわけではないが、みんなの思いを広げようと。そういう試みだった。
僕も人の死を悲しむような年ではないが半藤さんを失い大木が倒れたように感じる。歴史の分野においてアカデミズムとジャーナリズムの枠を取っ払い相互乗り入れを実現した先駆的な存在だった。
「死んだらダメだよ。言論界の地図が変わるから」と言っていたのに。半藤さんは近代日本が犯した多くの誤りを書き残していかなきゃいけないと遺言のように言っていた。いろんな国に迷惑をかけたことの歴史的総括をやっておかないと日本は信用されない、と。半藤さんに触れた人たちは昭和史の誤りを克服していく方法を継いでいかなければならない。