富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

傅聰(1934〜2020)追記


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米国でトランプ支持者らの国会突入。支持者に議事堂への行進を!と促したトランプ。

癲世界中,狂人係正常,正常人就係狂人。
鬼世界中,鬼係人,人係鬼 (MJ君)

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トランプのFacebookは「リスク大きすぎる」と無期限停止  Twitterは凍結解除:朝日新聞

のちにTwitterもトランプのものを改めて凍結の由。Facebookも世界中の数多の人々利用を社主及び少数の首脳が匙加減一つで何うにでもできるのだから、これはこれで怖い世界。

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茨城県でも不要不急の外出の自粛(1月20日まで)が出て首都圏一都三県との不要不急な往来の自粛(2月7日まで)と知事。水戸市水戸芸術館など公共施設は「緊急事態宣言が発令されている都道府県からのご来館はお控えいただきますようご協力をお願いいたします」。自粛とか協力要請といふ、これは性善説なのか適当なのか。よつて昨年春の緊急事態に比べると世の中は平常のまゝで混雑。

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外出は自粛。北条民雄(1914〜1937)の『いのちの初夜』を読む。1932年に18歳で結婚するが翌年、癩にかゝり離婚し34年に東村山の全生園に入院。園から川端康成に手紙で師事して、この作人の発表となる。この『いのちの』は川端による改題で原題は『最初の一夜』だつたさう。原題の方がずつと良い。33歳で逝去。この短編は日本近代短篇小説選 昭和篇1 (岩波文庫) に入つてゐたのだが鱒二が愛おしむ友・青木南八の死去に関はる『鯉』や、やはり中島敦『文字禍』など読み応へあり。

▼先日他界した傅聰演奏する蕭邦が悲しい調べと先日この日剩にも綴つたが傅聰について蘋果日報で左丁山が書いてゐた。傅聰が若いころ香港で中文大学の新亞学院で演奏。そこで左氏が何う朝夕練習続け暗譜して流暢に弾けるのかと尋ねたら傅聰は「さうすることでたくさんの悲しい記憶を忘れることができる」と答へたといふ。

將近告辭時,傅聰走下來與大家閒談,問他日夕練習早已可以背誦如流的樂曲,有何原因,傅聰答:「可以忘記many sad memories」! 傅聰的悲傷回憶,大概與父親傅雷的文革遭遇有關,據老朋友Oliver(周光蓁博士)在亞洲週刊(1月2日)的記述,傅聰在六十年代到香港表演,形容香港是自己的第二故鄉。他是蕭邦鋼琴音樂的傳道人,蕭邦流亡巴黎,他則在中國政府着他在波蘭華沙畢業後回國,選擇在1958年12月,隻身飛往倫敦流亡。他對周光蓁說:「當時因為世界上沒有一個可以像香港那樣可以踏足的社會」,他與父親傅雷最後一次電話通話,就是在香港1966年夏天,傅雷給紅衞兵批鬥毆打四天三夜之後,夫婦雙雙在家上吊自盡(見李純恩專欄,1月2日)。父親早在反右運動中被打成右派,吃盡不少苦頭,文革再受污辱致死,這是傅聰一生的傷痕,many sad memories,一生寄情鋼琴音樂,內心常懷悲痛。與他比較,郎朗,李雲迪,與王羽佳是幸福小孩了。(左丁山)

この文章で同じ蘋果日報(1月2日)で李純恩が傅聰追悼とあるのはこちら。

傅聰の父親•傅雷は中国で著名な翻訳家で文革で連日連夜紅衛兵に痛めつけられ夫妻で首吊り自殺。当時、傅聰はワルシャワに留学中でもう一人の兄弟は下放労改。江といふ姓の少女は傅雷が翻訳した文学の一介の読者だつたが傅夫妻の自殺を伝へ知り居てもたつてもゐられず傅家の養女だと偽り夫妻の遺骨を預かり埋葬した上に傅夫妻の死を周恩来首相に伝へようと手紙綴つたが、これが公安の識るところとなり江少女の半生は厳しいものに。彼女は46歳で大学入学が叶ひ今は上海大学美術学院で教鞭をとつてゐるといふ。

一九七九年四月,傅雷的兒子傅聰終於回到上海,當他得知父母骨灰竟然保留下來,感動不已,他和弟弟到處打聽這位陌生的好心人,結果從一位記者朋友處知道了江小燕。但江小燕婉拒了跟他們見面,她說:「我既然能在他們惡運覆頂之際為之申訴,當然也能對他們今天的聲譽日隆視若無睹,這往往是一件事情的兩個方面。」

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