富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

仁左衛門〈梶原平三誉石切〉


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林鄭市長の発表で香港市役所は内地から戻りボーダーでの簡易検査で陰性証明された香港市民に対して14日間の強制隔離免除を検討だといふ。一国両制どころか一制度下の同じ国なのだから当然の措置か。教育局は反体制的言動の教員の免許資格剥奪まで検討と蘋果日報。 

本日農暦八月廿六日。お昼は間2日で東京ビルヂング地下の〈トナリ〉でタンメン。先日は午後2時過ぎで行列は数名だつたが今日は昼前だつたが早めのサラメシ客ですでに十数名の行列。食後に東京中央郵便局へ。さすが東都のシンボル的郵便局は記念ハガキ等も充実でいくつか郵便を送り自分宛に風景印入りのハガキも出す。台風の影響で不安定な天気もおさまり秋の柔らかい日ざしのなか歩いて銀座へ。有楽町駅で駅スタンプ押して電車通りのウヱスト喫茶店へ。


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珈琲にモンブランケーキ。木挽町で第2部の芝居、高麗屋角力場を見終はつた村上湛君と待合せ。四方山話。湛君がお染のお昼にcorned beefのサンドヰツチ頬張つた後にカスタードのシュークリーム頼んだらウヱストのそれはやはり美味しさうでアタシも2つ目のケーキにそれをいたゞく。高校生の頃、目黒シネマに行つたり代ゼミの夏季講習サボって目黒にあつたウヱストで銀座より大きめの音量で流れるクラシック聴きながらこのシュークリームを食べて珈琲を何杯もお代はりして過ごす時間が好きでした。二人で交詢社ビルのバーニーズ紐育を抜けて鳩居堂に寄つてお線香贖つて歌舞伎座

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先週金曜日に水道橋の宝生能楽堂で邂逅の湛君と今日の第3部のお芝居が偶然一緒だつたことわかつた次第。松嶋屋の〈石切〉。青貝師六郎太夫歌六、その娘梢役が孝太郎。松嶋屋の景時は十五代目(羽左衛門)の型を権十郎Ⅲに教へてもらつたものださうで具体的なところは芝居の後に有楽町に向かつて歩きながら湛君が細かく教へてくれたが他の型(つまり播磨屋のじつくりとセリフ大切な景時)に比べると「派手なんです」と松嶋屋ご自身が語つてゐるが、なるほどといふ「見た目」。それはそれで松島屋でこその景時であつて絵になるもの。今年七十六でこれだけ凛々しいのだから大したもの。歌六も孝太郎も上手だが孝太郎の芝居がコテコテで景時の石切が何だか下町の芝居小屋の舞台のやうに思へて可笑しい。平時なら歌舞伎座に入れば大玄関に松嶋屋の奥様がゐらして笑顔で迎へてくれ忙しいなか少しお話できるのも松島屋の芝居に来る楽しみだつたのだが疫禍では奥様もロビーに出るわけにも行かず、おそらく木挽町にも来られてゐないのだらう。寂しいかぎり。

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片岡仁左衛門〈梶原平三誉石切〉

数寄屋橋の阪急がメンズ専門館になつてゐたことなど知らずにゐて湛君が地下に蝶ネクタイもそこそこありますよ、と連れていつてくれる。有楽町で彼と別れ東京駅へ。午後7時くらゐで退勤さすがにかなりの人出。
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グランスタに崎陽軒の出店ありシュウマイ弁当*1仕入れて列車で食べながら帰宅。水府は小雨。疲れてゐて一寸眠いが野嶋剛『香港とは何か』(ちくま新書)を列車の中で読了。市立図書館で返納過ぎてゐて次の予約者ありと返納催促の電話をいたゞいてしまつてゐた。ごめんなさい。 

香港とは何か (ちくま新書)

香港とは何か (ちくま新書)

 

朝日新聞記者であつた著者と香港の関はりのきつかけが興味深い。中学の時から横浜の教会に通つてをり上智大で第二外国語で中国語を習つてゐたこともあり中国の地下教会に聖書を運ぶといふミッションに参加して香港を経由して広州に向かつたのだが、その経由地の香港にすつかり魅せられて大学を休学して香港の中文大学に1年間留学。それが1989年だといふからアタシより1年早く中大にをられたことになる。天安門事件の年。『香港とは何か』といふタイトルの本だが著者は「香港ほど物語にしににくい場所もない」といふ。「香港には主役がいない」。新加坡のトーマス=ラッフルズ(これを李光耀といつても良い)、台湾の李登輝、中国の鄧小平のやうな舞台回しになる指導者やヒーローが英国時代から現代に至るまで香港に現れなかつた、と。御意。そして、このやうに述べる。

香港人が1980、90年代に政治に関心を示したことは、香港人は歴史的に見て政治に無関心であったという一般の認識を完全に覆すものであると主張する者もいるが、これも時代錯誤の見方である。1980年代、90年代の改革の要求は、香港の社会・経済・政治的な条件の変化、特に地元意識の高揚、「中衛合同声明」、天安門事件に対する香港の反応によってもたらされたものである。この頃までに、香港は以前と異なる場所になり、その市民は以前とは違う人々になっていたのである。香港の経済の繁栄と政治の発展に対して香港人が貢献したのであれば、香港の住環境や社会サービスの劣悪さ、抑圧的な教育制度、政治文化の弱さに対しても、香港人は責任を問われざるを得ない。もしも、一部の評論家が言うように、香港の大衆が確かに植民地政庁の社会サービスと政治改革の面での悪い業績に対して怒っていたならば、彼らは政庁にもっと強く要求したはずである。1970代の政治・社会活動家は、香港の情況は中国よりもすでにはるかに良いのであるから、政庁を政治に巻き込んで面倒をかけるなと、しばしば華人社会のすべての階層の者から警告され、抵抗されていたのである。

このパラグラフは一寸整理されてゐない感もある。何度か読んでもやゝこしい。趣旨は香港の住民は政治的でなかつたのは間違ひない事実で、それが1980年代から地元生まれの世代の香港意識と政治的な環境の変化によつて意識が政治化された。これは事実。だが生活する香港の環境に文句もいはずにゐたのだから、さうだらう、といふのは一寸短絡的すぎないか。政治的な意識などなかつたといふより「それどころぢゃなかった」が正確だと思ふのだが。気になつたのはそこだけ。著者は視線に独特の柔らかさと優しさがある記者だが、この本も香港といふ都市を歴史や文化まで様々な角度から見つめてゐて読みやすい良書。雨傘運動まではこの著作の射程範囲だつたが昨年の反送中騒乱で書き止めも能はず、それに言及があり出版も予定より遅れたやうだが、それによつて今の香港をよくとらへてみせた。

*1:東都で売られてゐるのは崎陽軒でも東京工場製でかぶせ蓋。やはり蒸れてしまふが横浜工場のは昔ながらの紐かけで、こちらの方が手間がかゝるのだが都下でも蒲田までは横浜のものが売られてゐると湛君に聞く。