富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

敬老の日(加筆あり)


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海外、殊に感染の非抑制地域からの旅者を何う扱ふか。疫禍長期化するなかで防疫と経済回復のジレンマ。日本も感染抑制地域からの渡航者を日に1,000人規模で受け入れるといふ。香港から台湾への密航で中共に捕らへられた12日の安否気遣はれる。

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長野H氏より小布施甘精堂の新栗の栗羊羹いたゞく。茹でた栗の入つた栗蒸しではなく甘味の強い栗の練り物。新鮮で今日、明日しか保たず。
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丹尾安典先生(美術史、早稲田)の『男色の景色』(角川書店)読了。数日前からこれについていくつか言及してをり繰り返せぬが高畠華宵(1988〜1966)から中原淳一、そして戦後それが内藤ルネ、藤田龍と繋がる美少年画(藤田を除けば少女画こそ馳名だが)の系図について。また巻末に「あとがきにかへて」で戦後のホモバーについて、尾張町(銀座5)のかの「ブランスウィック」に始まり新宿は角筈(アルタ裏)の「夜曲」そして「イプセン」など貴重な昭和の記憶。それにしても戦後の銀座や新宿など本当に懐かしく面白い時代であつた。

男色の景色 (角川ソフィア文庫)

男色の景色 (角川ソフィア文庫)

 

試験のときは南八のそばに坐つてゐると絶対的に便宜があつたので四五人の級友は南八のぐるりに席をとつた。しかし南八は教師がドアをあけて教室にはひると同時に席をたつて私の隣りの席に来た。私にカンニングしろと云はぬばかりの挙動であつて、さういふとき私の胸はどきどきして却つて満足なことができなかつた。しかし答案を出した後で、答案の出来栄えについて私が心配すると南八は機嫌が悪かつた。それは芸術家らしくないことだからである。私が学校に気乗りしなくなつて欠席しがちになると南八は学校へ行く前に私を呼びに来た。そして部屋の障子を細めにあけ「おい、起きないか?」と云つて私が起きあがるまで廊下に立つてゐた。(井伏鱒二『秀作時代』より)

青木南八は鱒二の早稲田時代の親友で鱒二は青木に読んでもらふがためのやうに小説や随筆をいくつも書いて南八に読ませてゐる。夭逝し鱒二はその後、早稲田を退学。 

(オカマの「カマ」は)梵語のカーマから来てゐるのであらうと思はれる。印度の有名な愛経はカーマスートラでありカーマは愛欲を意味するのである。悪を意味するマーラなる梵語が僧侶により男根の隠語とされ之が俗間に普及した様に主として女禁制の僧侶の間に行はれた愛欲の隠語にカーマを用ゐて居たのが俗間にも普及し之にオを冠してオカマと称するに至り初は同性異性の区別とてはなかつたものが僧侶が男色を旨とするので之が男色に専用されるに至つたものと思はれる。(浅田一『医心放語』昭和12年、南光社)

 これは珍説だが、なるほど面白い。〈蔭間〉については丹尾先生が諸説列挙するなかでも興味深いのは熊楠先生の説で衆道といへば弘法太子で高野山には厠のとなりに一室あり「この間にて屢々一儀を行ないしらしく候」。

この間を蔭間といひ、その間にしばしばおるゆゑ蔭郎といひしかと思ふ。一儀行なひしのち若衆は必ず雪隠へ行き後庭に入りある男精を瀉下す。ピーピーと鵯の鳴くごとき音す。それにして一儀果てしと知りしなり。

とは熊楠先生の実に具体的な説明(岩田準一宛)。また「かきくけこ」で蔭(かけ)の間には「きく」(菊)あり、だなんて、これは言葉遊びの類ひ。

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尾形光琳の〈紅白梅図屏風〉もこの構図の仕掛けは随分と語られてはゐるが丹尾先生のこの本では〈妹背山〉の吉野川のやうに中央に流れる川=女性を挟み右の若い紅梅が中村内蔵助光琳唯一の肖像画、下)で左の白梅の老木を光琳とする。光琳の方を向いた内蔵助の姿が何とも(艶かしいどころか)モロでエロいのである。

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