富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

GDP年27.8%減 戦後最悪

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蘋果日報久々に元気なのは米国政府の香港制裁で香港反民主指名手配の11人にオンライン用いたオンラインバンキングやVISAとマスターのクレジットカード利用も制限ださうで。かうなると11人には银联の(当然、人民元決済の)ブラックカードとか届くのだらう。一面は「立法保護!」の市民によるのださう意見広告(蘋果日報の意見アッピールではない、か)。


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来週から始まる一般市民への感染検査で検査対応に2千名の看護師必要で募集だとか(大公報)。それにしても今日の大公報の社説 「祖国好,香港就差不了!」(祖国が上手くいけば香港は悪くなるはずがない)がすごい。

(最後の段落、抄訳)中米紛争は長期戦であり、米国全体の国力は依然として中国よりも強いため、中国が米国の攻撃的な挑発に応じる場合、それは合理的かつ抑制されているものとなる。 限りなき消耗戦。 現在の新型コロナウイルスの流行下で、米国はすでに多くを失い中国は大きな勝利を収めており、輝かしい勝利といえる。中国がこの上昇の好機をつかみさえすれば、すべての問題は将来中国に有利となる。 このような状況で香港の人々は全体の状況をはっきりと見極め、正義の側に立ち、自信と落ち着きをもって対処しべきなのだ。祖国が上手くいけば香港は悪くなるはずがない!

長期戦とか限りなき消耗戦とか、それに持久力で勝つには……ってまさに我が国のさきの戦争での不毛な精神戦論のやう。だが中共は武肺に関して米国に比べれば徹底した対応ができたのも事実。で、それにより自信をもつて対米戦を!となるのだが逆に防疫の「勝利」ですべてが勝利できるわけではない。それにしても「全体の状況をはっきりと見極め」たらどっちが正義か?なんてわからないと思ふのだが。だがそれでも「祖国が上手くいけば香港は悪くなるはずがない!」は広い意味で、これは事実だらう……「中共が上手くいけば」より次元の高い話として。

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早朝に目覚め薄茶一服で加藤守雄『わが師 折口信夫 』(文藝春秋)読む。朝イチで読むものではない。折口先生の性癖など折口信夫に興味ある者なら誰でも承知のことで、それをかう書かれてしまふと暴露本*1。時代は昭和18年で折口先生は春洋君が二度目の入隊で金沢に赴くところ、折口先生とお弟子筋との日々から始まる。春洋君不在、折口のお眼鏡に叶つた加藤君。「君は細身の刀みたいな所がある。ぼきりと折れさうに思へて、はらはらする。それが僕の愛情を深めるんだよ」と折口先生は正直で旅先で同衾をと試みるが加藤君は受けいられず。衆道は世間でいふ変態ではない、男女間の愛情より純粋で深いものがあると説けば折口に傾倒するお弟子なら単に師匠の学説を受け継ぐだけでは功利的すぎて「子弟といふものは、そこまでゆかないと完全ではない」と折口魔術に嵌るのだらうが加藤君は何うしてもダメ。春洋君は戦死、悲しみの淵にある折口先生だが戦後その門下にはすでに岡野弘彦が登場。加藤君はもはや立ち位置もない。加藤は戦後、角川で雑誌『短歌』の編集長などもするが立教高校での講師こそ長くしたものゝ結局は折口研究で昭和44年にこの「暴露本」上梓。そこに「森蘭丸織田信長に愛されたといふことで歴史に名が残つた。君だつて折口信夫に愛された男として名前が残ればいゝではないか」といふ折口先生の言葉が遺つてゐるが加藤はそれを愛情としては拒んだやうで、実態はまさにこの本は折口先生のそれを実踏したことになるまいか。折口畏るゝべし。

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昨日、徳川幹子(もとこ)さまの記録映像DVDのことを綴つたが、それを見ようにも実家のテレビのDVDプレーヤー部分は物理的に壊れてゐるやうでMacBookからテレビに飛ばすにもDVDドライブが必要。ビックカメラに行くとAppleの純正のDVDドライブはデザインはステキだがUSB(タイプA)対応のまゝで8千円もするのに対して他社で半額以下でタイプC対応のDVDドライブあり。それを購入して、この幹子さま映像を見る。郷里の畏友J君にはぜひ幹子さま聞き語りの『わたしはロビンソン・クルーソー 』も読むやう勧められ早速、市立図書館で通読。

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慶喜公の孫にあたる伯爵夫人が戦後、水戸に下り開拓地で開墾、農業に従事するのである。その開拓者精神の見事さ。ご本人は大正末期のドイツでの暮らしで大戦後の敗戦国としてのドイツの現状をつぶさに見たことが日本の敗戦後の自分の生活にどれだけ指針となつたかと語つてゐる。 水戸で徳川家といふと現在、徳川ミュージアムのある見川の徳川邸を想像するが、そこは幹子さまにとつては夫の父(十二代当主)から義兄(十三代圀順公)への邸宅がそこにあつたわけで幹子さんが入植したのは、その見川でももつと奥にある水戸徳川家の領地でまさに開墾。東京からリュック背負ひ13歳の息子を連れた侯爵夫人はリュック背負ひ水戸の一つ手前の赤塚駅に降り立ち、そこから歩いて見川丹下に来たのだといふ。Nさんといふ水戸徳川家に仕へたお家がやはり入植してゐてお世話になつたといふが開拓地の小屋暮らしとは。現在もそこに当時からの農地等が残る。(下の住宅地図は昭和54年のもの)


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偶然だが、この見川丹下の開拓地近くを通る。昔からある電気屋さんにはまだカラーテレビの屋外広告が。それもカラーなのに色あせてゐるし。
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*1:同性のかうした暴露本なら北公次さんの『光GENJIへ』とかジャニーさんの少年に対するセクハラを吐露した書籍もあるが、あれは当時よほどの事情通でもない限り誰も知りえぬ内容の少年たちへの具体的なセクハラ行為。だが折口先生の場合、この大学も出た年齢の著者(加藤)へのそれは好事家からすると「大したことない」内容か。それにしても加藤に描かれた昭和17年、58歳の折口先生は貧弱で、布団のなかでが「足が冷える」とがさがさと荒れた踵を加藤の布団に入れてきて抱き着き接吻強要して……まさに老醜晒すばかりで何とも言葉もなし。