富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

ハコに頼らないといふ決断


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これまでも中联办であるとか外交部驻港公署であるとか香港警察が警備に当たつてゐたが蘋果日報が報じるのは跑馬地(といつても新華社のある皇后大道東周辺からMorrison Hill一帯)にある中联办所有の不動産で謎の監視が行はれてゐるとのことで蘋果はこれを「白色恐怖」とするが問題は誰が何の目的で?といふこと。香港警察がこれを担つてゐたらややこしい話。

▼昨日読んでゐた新潮社の『波』7月号で隈健吾先生「コロナ禍に考えたこと」を読んだ。それがネットにも出てゐたようで、こちら。

建築家・隈研吾がコロナ禍に考えたこと「建築はひどい目にあってはじめて変わることができる | Book Bang

今回のわれわれを襲った疫病は、この都市、建築の一貫した流れ、すなわち大惨事の後に、より強く、より大きなものへと進化するという流れを繰り返すのだろうか。
僕は何か根本的に違うことが起きたような気がする。
もう強く大きくしようとは誰も考えない気がする。
強く大きなハコに閉じ込められてきた、われわれのライフスタイル自体が、今回の疫病で全否定されたように感じられる。 もうハコに頼らないと決断すること。
新しいハコを建てれば、何か新しい生活が始まり、新しい世界が生まれるという幻想を捨てること。

といつた内容。建築家がこれに言及とはかなり勇気の要ることだと思ふが東京都庁の新宿副都心への移転計画で(出来上がつたのは丹下健三のバブルの塔だつたが)磯崎新が高さ100mに満たない低層の市民目線の都庁舎を発案したときに新宿の高層建築のなかに「これかよ」でハコモノ行政へのアンチテーゼは興味深いものがあつた。

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そこで今回この隈研吾先生の文章を読んで、ふと気になつたのが水戸の中心地で再開発計画の核になる新市民会館。こちらは伊東豊雄先生の設計。

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これも市民会館といふ公共建築で伊東豊雄らしい柔らかさに満ちた、それでも大きなハコではある。その北側に磯崎新設計の水戸芸術館が平仄よろしく根付いてゐる。

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だがかつての水戸市の繁華街の中心地(デパート跡地)の再開発で、空虚化した市の中心部に2千人収容の大型ホールをもつ、この市民会館といふ「ハコ」を建造することで果たして市中心の繁華街や市民文化が活性化されるのか。若者相手の大型のコンサートやイベントは郊外のスタジアムに移り水戸で2千人収容のホールを氷川きよし綾小路きみまろなら盛況か。松竹の歌舞伎巡業では勘三郎でさえ県民文化センターで1,500人のホールが満員にならなかつたといふのだから。21世紀に、しかもポストコロナの時代に大型の市民ホールの経営は難しい。成人式だつて2千人にならないのでは? 水戸芸術館はさういふ意味で「大きなハコ」を否定した施設で好きな人だけが集まればよい小さな音楽と演劇のホール、そしてギャラリーがあるだけ。まさに大型のハコを否定してゐるのだが反面この施設の運営に年間10億円かゝつてしまふ。芸術館での催事に興味ない市民にとつては10億円は無駄となる(そのホールがあることが維納ならStaatsoperで市民の誇りだらうが)。

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建物(ハコ)といへば水戸から勝田(現在のひたちなか市)の枝川地区に入つたところに回教のモスクがあつた。回教徒にとつて大切な施設だが水戸や周辺で回教徒がどれほどゐるのか、資金的なこともあり居抜きの建物の再生で?と思つたが、よく見ると手洗ひ場と厠といふ不浄は建物の外で傍らの電柱に近い角は建物が窪んでゐるが、こちらは東北東でメッカはおそらくその反対の角の方なのだらう。このあたりは那珂川河岸段丘縄文時代からの貝塚などある穀倉地帯。田圃の広がるなか農業道路を自転車で走つてゐたら晒し首に出くはして畔に落ちるほど驚いた。

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カラス除け?なのか、それにしてもリアル。よく見ると田圃のなかに点在してゐる晒し首。こちらなんて髷を落とされたやうで若武者の首実検か小塚原の刑場のやう。見開いた目が天をしかと凝視して……さぞや無念であつたのだらう。
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少し気持ちも落ち着いて近寄つてみると最初の若者は頭蓋骨損傷で脳まで破裂してゐた。なんてむごいこと。
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市立中央図書館へ。『新潮』8月号で筒井康隆ジャックポット』を読む。

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新潮社『波』7月号の「編集長から」で、この小説を「刻一刻と推移する感染状況と併走するように執筆され、電撃的に書き上げられた「新型コロナウイルス文学」の傑作」と書いてゐたがまだ終息もせぬ疫禍のなかですでに「傑作」と言つてしまつて過言ではない言語のヰルスで読めば感染「発熱した日本語」である。

もし、来年はないかも。ないかも。そうです。来年そのものがないのです。まるで死者のように、来年がどこかへ行ってしまうのです。#筒井康隆 #ジャックポット

月刊の文芸誌を読むことなど稀で『新潮』の頁を捲つてゐたら平山周吉氏による小津論あり。小津を語る言葉多し。もう荷風散人と小津に関しては食傷気味にすら感じる。荷風はいくつかの小説と日剩を読めばよく小津の映画は見ればよい。それに蓼科日記とか小津の日記も面白い。それにしても小津監督が亡くなつたのは還暦である。そしてもう一つ、片山杜秀先生が「水戸学の世界地図」といふのを連載してゐて今回が第52回の最終回で「大政奉還」。

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この論考では天狗党で梶山敬介(自民党梶山静六の曽祖父)にまで言及があるが、それはこゝでは触れない。水戸学は天皇ありきで天皇から征夷大将軍として統治を委任されたのが将軍家であるから天皇への忠義が第一。「天皇の意向通りに政治を」だから慶喜もさうしてゐたのだが天皇が幼少の少年(明治帝)に代はつたことで政治的意思を自ら示すことなく公家や倒幕派の傀儡、抽象的機関となり、その水戸学の政治理念も自壊。慶喜は意思なき装置としての天皇を自由自在に操るやうなことはできず。周囲の振る舞ひも掌握できず、これは古風な儒学の限界。手を拱いてゐるうちに天皇を討幕勢力に取られてしまひ朝敵となるわけにはいかずの大政奉還。片山はこの慶喜の作法が後の西郷隆盛前原一誠江藤新平を育み承詔必謹の精神は軍人を律し国民を導いたとする。

昭和20年に敗戦となっても、反乱は少なく、高ぶっていた者たちもたちどころに恭順する。大義名分なく、申し訳の立たないことなら、どんなにやりたいことも我慢し、黙っている。大義名分があると思ったときは、大老殺害も辞さない。この振り幅が、そのまま近代日本人の精神構造というものではありまいか。

大日本史』編纂は明治39年になつて完成し、その2年後に50代半ばの明治帝は慶喜勲一等旭日大綬章授け慶喜は明治帝崩御を見届けてから逝去。


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千波湖カルガモの子どもたちもすつかり大きくなつた。親ガモも子たちに手がかゝらずカラスの襲撃も恐る日々は過去となり近くでのんびり。黒鳥たちものんびりとお散歩。