富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

㐂久水


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昨日の15人検挙は大公報だと「暴乱の黒幕」で蘋果日報だと「民主派」となる。一般的な感覚では後者だが米国の手先で(笑)で暴徒といふのが中共

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昨日の春の嵐が過ぎ今日は好天。この塞いだ日々で各地公園や海岸など人出多し。水府も騸馬湖沿ひにはジョギングや散歩の市民多し。それでも市中の商店街は廃墟の如し。

日本累計確診破萬 醫生警告「疫情急遽惡化或拖垮醫療系統」立場新聞

日本是最早出現疫情的國家之一,但防控工作一直為外界詬病,由年初到現在,個人保護裝備仍然不足,病毒測試又偏低,在 3 月份,只是做了 5.2 萬個測試,只及南韓的 16%。當地確診個案近期顯著上升,由 4 月初的二千多宗,不足三星期內大升至過萬宗。有專家警告,疫情一旦大爆發,病例可以在 3 日內增加一倍。如果疫情急遽惡化,會拖垮當地醫療系統。

家で珈琲豆が切れた。母も妹も珈琲が好きで深刻な問題。何処なら珈琲豆が購へるかしら?と、まるで戦時中か戦後の物不足である……といふのは大袈裟。確かに営業続けてゐる大型食品店とかにはあるが、選りすぐりの豆を店で焙煎して……の専門店となると「何処なら」となる。それで「生活必需品の必要最小限の買ひ出し」で出街した次第。丁度、昼時にあたり大工町で㐂久水さんの暖簾が出てゐる。誰もお客さんもゐないやうで濃厚接触も怖くない。久々にご挨拶。アタシが子どもの頃に祖母に連れられて来た頃から……いや創業90年近くで戦前からエアコンがついて照明がLEDになつたくらゐで他は何も変はつてないだらう。

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ご定番の「ランチ」をいたゞく。ハンバーグとトンカツでご飯を食べてからポテトサラダとキャベツの千切りに特製の具も少したっぷりのデミグラスソースをぐちゃ/\に混ぜて食べるのがアタシは大好き。

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南町の旧・岡崎家具店の跡地にあるマルニコーヒーで珈琲豆仕入れ帰宅。駅ビルは北口も南口も商業ビルが閉まり辛うじて北口地上階の超級市場と駅舎コンコースの吉野家やパン屋が数軒開いてゐるだけ。 


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来月からの成田屋團十郎襲名披露。名跡は十分なのにハクエンなんて余計な名前付けるから疫禍に祟られ三ヶ月に渡る襲名披露公演取り消し。屋号や成田屋でなく白猿(シロザル)屋でもいゝかも。疫禍で取り消しになつた三月の歌舞伎座公演を松竹が数日前からネットで無料公開。かうした映像を見るために先日、AppleTVの端末を買つてあつたので母と昼の部の〈新薄雪物語〉を見る。

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前半の〈花見〉と〈詮議〉は芝翫が良いが間延びした話で少し退屈。舞台にお女中が随分と出てゐて、つい志村けん柄本明の〈芸者コント〉思ひ出してしまひ母がそれを見たことがないといふので〈薄雪〉の後半の前にこの生粋の〈芸者コント〉をや加藤茶と志村の歌舞伎家族を見て笑ふ。〈薄雪〉の後半は〈広間〉で母の好きな松島屋が現れ〈合腹〉で葵太夫さんの義太夫に合はせ播磨屋が現れると、それまで少し退屈だつた芝居の空気が急変。それにしても葵大夫の古風な義太夫播磨屋の芝居がまぁ活きること。この〈薄雪〉は初めて見たが芝居の筋よりも伊賀守と園部兵衛に今回のやうに吉右衛門仁左衛門といふ二大役者が並び十分な義太夫があれば、それ(だけ)が面白いものなのかもしれない。後日この〈合腹〉を映像なしで音だけで聞いてみたい。

伊東豊雄先生の半生記より(朝日新聞

仮設住宅の敷地の中に被災者が一緒に集まって食事をしたり本を読んだりできるような場所を作れないかと考えました。小さな小屋なら僕らでもできるはずです。「くまもとアートポリス」のコミッショナーを務めている縁もあって熊本県が資金と熊本の県産材を提供してくれました。
第1号は仙台市宮城野区の公園の仮設住宅の傍らに建てることになりました。建築家らしいデザインにするかどうか迷っていましたが仮設の住民に聞くと「縁側やひさし、まきストーブが欲しい」と言われて。これはもう切り妻屋根の何でもない小屋を作るしかないと(地震の2011年の)10月に完成しました。
自分が作ってきた建築と人々が求めるものとのギャップを埋めることは可能なのか。今も解けない課題ですが「みんなの家」と名づけた小屋が完成したとき皆さんが涙を流して「よく作ってくれた」と言ってくれました。自分が関わった建築で、あれほど喜んでもらった経験はありません。