悶々とした生活で卡拉OKで憂さ晴らしといふ気持ちもわかるが卡拉OKボックスでの感染目立つ由。そりゃ換気悪い狭い部屋で同じマイクで濃厚だらう。本日防疫目的に更なる社会制約発表あり。
早晩に金鐘で荃湾線下りへの乗り換へは退勤ラッシュで2、3本待ちは日常だが乗客激減で金鐘から最初に来た電車に乗れたどころか坐れた。午後6時の尖沙咀站もご覧の通り閑散としてゐる。
尖沙咀の街場を逛蕩。いくつもの店舗が肺炎深刻につき営業暫停と張り紙して扉を閉じシャッター下ろしてゐるが疫禍前でも高騰する家賃と人件費で大陸客の購買力にだけ縋りの商売。ぎりぎりのところの脆弱さに疫禍ではひとたまりもない。ずつと香港島に住まひ尖沙咀に来るのは今では一月に一度あるかないかだが、やはり若い頃の一人旅で香港=尖沙咀が原体験的に印象に強く刷り込まれてゐるので尖沙咀はどこか懐かしい風景なのだ。1990年の8月末に重慶マンションに泊まつてゐて明日から中文大学での寮生活が始まるといふ日に尖沙咀碼頭から香港島を眺め「旅行ではなく此処での生活が始まる」とビール飲んでゐたが、それからあつといふ間に30年近くが経つてしまつた。だから今でも尖沙咀が香港なのだらう。香港の風景はどん/\変はる。Chatham Rd Southを歩いてゐたら京菜の泰豐樓の向かふにRosewood Hotelの入るモダンな超高層ビルが聳へてゐた。
Hart街にある呑み屋「酒血」に久々に寄りサッポロビール独酌。こゝの女将とは広州の焼酎バーのころから。時節柄閑かなのかと思ひきやアタシが口開けではあつたが直ぐに他に早飲みの客あり。女将からぐい呑みを一ついたゞく。たまにこの酒場に寄るといつも宮城の伯楽星を飲むときに、この大ぶりのぐい呑みが出てきて女将曰く何処だかの骨董屋だか市で見つけた幕末の酒盃ださうで四つ組みのうち一つが少し形が歪み内側に傷があり、だが歪みが手に馴染み女将がこれはアタシ専用といつてくれ、それ以来何度もそれで呑んでゐたが店を閉める時か店はやつてゐてもアタシが日本に戻るとなつたら、それをくれる、どちらが先になるか賭けだねと笑つてゐたが今晩女将からそれを貰ふことになるとは。
尖東の五味鳥に晩7時の開店に合はせ家人と待ち合はせ。すでに他2組の客あり。だが狭い店で客の間合ひとるため電話かけてきた客はもはやお断り。尖沙咀で30年前からあるのはこの焼き鳥屋と地下二階の一平安くらゐしか思ひあたらない。当時の数少ない日本料理やは他はどこももう閉まつてしまつた。帰りがけに親方にあの句をもう一度書いてくれといはれる。この五味鳥のことは20年も前に週刊だつた香港ポストに飲食店紹介の連載をもつてゐて此処も紹介してゐたが(香港徒然外食)そこに戯句があつたことなどすつかり忘れてゐた。慌てゝ昔の記事のファイルをクラウドで開ける。
冷や酒に 焼き鳥三串 通り雨
親方が記念にと店の三十周年記念の時の菊正宗の一合〼を二つくれた。
紅磡のバス乗り場に来るとバス待ち客も数へるほどの寂しさ。