富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

葛兆光『中国再考』

農暦六月廿四日。朝、J-WAVEでジョン=カビラさんの番組に電話で「中国のスマホ決済」について話す。日本もやつとキャッシュレスだが何社も林立。それに比べ中国はAlipayとWeChatPayの2社寡占で小売店にとつては収入だけでなく仕入れからアルバイト店員の賃金支払ひまで出納ができること、また中国は硬貨普及せず小額紙幣が小さい、ヨレヨレで汚い、クレジットカードは信販でその普及がある前に現金から即金のスマホ決済にワープしてしまつたことを話す。外国人もこれを使へるが入金が難しく知人に頼むと頼まれた方は現金渡されるのは嬉しくないといふ話には辿りつけず。

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昨日に続き青空。今日は平日の抗議活動は珍しいが空港にて。

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嘘でも空港管理局が空港建物内での抗議活動を認めることなど日本では考へられぬ。到着ゲートで到着客の歩行通路は確保すること、が条件。半夜三更に抗議活動終はり場所も片付けて撤収。到着客も大方は不便被るが香港の自由のための運動には致し方ないといふコメントがマジョリティか。

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海外からの渡航客多く海外へのアピールには打つて付けの上に香港から海外に飛び立つ場所としての象徴性。なかなか良いところに着想あり。

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27日(土)「光復元朗」デモ警察不許可にあたり当日、元朗でポケモンGOが何うした、李鵬追悼、仏教法会などあれこれ何かに託けた催事のアイデアが面白い。

政府形容元朗事件施襲者為暴徒 張建宗就處理手法致歉 - RTHK

今日の午後、政務司・張建宗が712の元朗暴乱につき政府・警察の対応の拙さにつき市民の謝罪する記者会見。明らかに明日の元朗抗議活動意識し少しでも沈静化させやうといふ、まるで藁にでも縋るやう。政務司元々小心者の小役人だが、もはや瞳孔開ききつてしまつた感あり。それにしても結局「なぜ林鄭は出てこない?」と誰もが終はつてしまつては逆効果。

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さらにこの謝罪に反論が警察から。何とこの謝罪につき事前に香港市役所は香港警察トップにも内容伝へてをらず警察内の職員組織四団体が連盟で林鄭宛てに612騒動鎮圧の独立調査委員会設営反対の書面提出の上、早急に政務司との面談を求め、その場で警察の困難も理解せず一方的謝罪につき猛烈な苦情伝へる。

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警察も信用、信頼を失つた上に政府上層部とも見解の不一致でもはや何うしやうもない。

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政府では上級公務員AO(Administrative Officer)7百名のうち1百名が連名で林鄭に逃亡犯条例撤回と612独立調査求める。天安門事件基本法23条に基づく国家安全条例、雨傘でもなかつたこと。政府系の医療組織職員も今日、抗議活動。消防署は712の元朗騒乱で救急隊員が自主的に怪我人救助に出たことなども公言。もはや政府の中ですらout of controlで何うして香港の治世が出来ようか。


「中国とは何か?」簡単なやうで六ッかしい。古代中国の「天下」観が何う現代の「世界」観に、伝統的な朝貢秩序が現代の世界秩序に何う転化したのか。中国の支配する「領域」が何う「国境」になつたのか。中国文化とは……いはれてみると本当に不明朗。漢民族による世界にモンゴルの元、満州族の清が横入り帝国化を進める。かう羅列しただけで戦前の日本の「支那研究」の限界そのもの。また民族や国家、さらに〈民族国家〉概念もポストモダンまで目紛しく変化してゐる。葛兆光は敢へてポストモダンには嫌はれるが欧州史と異なる中国史の歴史的特殊性、漢族の生活、社会と王朝の空間の一致、継続性は「偶然」なのか、中国は(欧米と同じ)近代になつて初めて民族国家となつたのか、を挙げる。〈中国〉は秦漢統一王朝のあと様々な分離や変化、異民族支配もあつたが終始存在しており、周辺は常に変動したが中原は相対的に安定し早くから基本的領域と王朝の変遷あつても同一の政治、民族、文化的区域形成し一つの「歴史世界」を構成。宋の時代に中国は国家体制の一つの完成を見て(これは今では通説となつてゐる)その後、元と清の異民族支配が寧ろ伝統的な漢族の体制を強固なものに。それが清末に世界的な近代に何う対応してゆくのか。

現代中国は果てしない〈帝国〉の意識の中に有限な〈国家〉があるという観念の中で、有限な〈国家〉という認識の中に果てしない〈帝国〉の心象を残している。つまりこの近代的民族国家は伝統的中央帝国から変身したもので、近代的民族国家として以前として伝統的中央帝国という意識を残している。

この指摘でまさに今の習近平体制までをそこに見ることは容易しい。

世界は狭くなっており、みなが一つの地球の上で暮らすからには、互いにほぼ一致して認める規則、みなが一緒に守る倫理、多数のものが選擇したことへのコンセンサスが必要であり、この規則、倫理、コンセンサスこそグローバル化がもたらす、いわゆる〈文明〉なのである。現在の問題は、我々が〈文明〉が普及していく情況のもとで、この文明の規律の下で異なる〈文化〉をいかに慎重に守っていけるかということに過ぎない。(だが)当然のことだが、このことは極めて難しいことであり、簡単に言っておけばよいということではない。

中国の覇権はさうしたコンセンサスも超越する観念。葛兆光はそれをかつて中共が提示した「平和共存五原則」をも消去するもの、と言つてゐる。この中共成立後のAA会議などでの原則のことなど、もう誰もすつかり忘却してゐる。中共はまた「世界」から「天下」に観念を戻し、そこでの新秩序を謳ふ。

我々は現在より遥かに多くの資源を管理し、経済的に管理、政治的に指導し、この世界を導かなければならない。

西側社会の危機に対して強大となつた中国が世界を救わなければならない。その中国を引導する中共の自信。これは秦漢王朝の時から何も変はりのない天下観。

中国文化の復興を強調することは、中国文化を資源とし、現代文明の必要に基づいて、この資源に関する合理的な選択について創造的な解釈を推進するものとなるのか。言葉を換えれば、全世界的文明を受け入れるという前提の下で〈全世界性〉と〈中国性〉、普遍的価値と中国的色彩を協調させることが可能かということである。もしそれが可能ならば我々はそこから平和を探求するインスピレーションと思考を探ることができるし、もしそれが不可能なら、大変面倒なこと、つまり〈天下〉概念が激化され〈朝貢〉イメージを本当だと思い込み、天朝の記憶が発掘され、おそらく中国文化と国際感情は逆に世界的文明と地域的協力に対抗する民族主義(あるいは国家主義)的感情となり、それこそが本当に「文明の衝突」を誘発することになるであろう。

葛兆光の見事な、実に鋭い指摘。当然、中共習近平体制が推進してゐる、今の中共の方向性そのものであり、それに対する深刻な危惧。葛兆光は中国国内に居をおく歴史学の泰斗。よくもかのやうなものが国内で、と思はされる著作だが、これは中国政治学の辻康吾による日本語版での岩波書店発行でのいはゞ書き下ろし。北京の書店で葛兆光《宅兹中国——重建有关“中国”的历史论述》を偶然見つけた辻先生が陳冠中の仲介で葛兆光と会ひ《宅兹中国》の訳出了解得たが内容が専門的で出版難航し結果、葛兆光から改めて論集での出版提案あり、そこで書かれたものだといふ。中国論を久しぶりに読んだが、やはり内藤湖南、橘樸、中江丑吉から竹内好あたりをじつくりと読んでみたいと思ふ。

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李鵬死去につき北京青年報(23日)がまるで李鵬死去祝ふが如き紙面でネット版は削除される。よく見れば1面トップ冗談に「李鵬死去」で詳細は3面とあるが、その下に青年活動紹介のお祝ひ記事で確かに一瞬、祝李鵬死去である。言論や報道が統制されるなか、かうした地道な抵抗は敬服の至り。この作法にどれだけの厳罰が待つてゐるのか。