富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

農暦四月十六日

天気は午後崩れ雨となつたが蒸し暑い。早晩にFCCでF氏と早酒。家人来て夕餉。ミニッツステーキ。

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偶にかういふ粗い料理が食べたくなる。「ミニッツ」は初めて聞いた時に名前が由来で、ニミッツなら私らの世代だとニミッツ司令官が戦地でも手軽に好んだステーキか、なんて思つてしまふがミニッツって誰かしら?と思つたが何のことはない、時計の「分」で短い時間で手軽に焼ける薄切肉のステーキとは。もう十六夜だが月を愛でるどころか月影さへ見ぬ日がもうどれほど続いてゐることか。

FCCといへば今日の昼に蘋果日報の壱媒体社主・黎智英招きランチ講演会。

黎智英:修例後香港玩完 FCC演講斥林鄭非常邪惡 | 蘋果日報 | 要聞港聞 | 20190521

反北京の急先鋒たる言論人は香港の中共への犯人引渡し条例強行立法されたら香港はお終ひ、と。基本法23条による治安立法なら香港に司法権あるだけ未だマシだが、この逃犯条例は容疑者がいきなり中共に渡されるのだから。大公報(翌日)は

FCC再幫亂港派做騷 肥佬黎大肆抹黑修逃犯例

と肥佬黎(黎智英)をFCCが招聘しただけでFCCまで非難の標的に。もはや全世界の良識に対峙する中共とは。……なんて、こんなこと言つてゐるだけで捕まつてしまふ世の中ももう近し。

▼李怡先生の蘋果日報連載の随筆は健筆衰へず。李怡先生に久々にお願ひあり連絡。それとは別だが李怡先生が五四運動百年の先日、その日に台北胡適公園訪れた際の文章が何とも高尚。

世道人生:五四訪胡適公園 - 李怡 | 蘋果日報 | 要聞港聞 | 20190515

以下、拙訳。

5月4日、台北に旅した。小雨のなか私は友人と胡適公園に行き、胡適の墓、墓碑、そして胡適の格言の刻まれた壁(箴言牆)を眺め16千平米の公園を漫歩した。何人かの台湾人に遭った。その中にはよくここに来て昔を思い返す人もいるのだろう。五四運動から百年、私たちは今ここにいるのだ。
中国共産党が政権樹立後、胡適は批判の対象とされ、私は香港の中共系の左派学校で教育を受けたため胡適の文章に触れる機会はほとんどなかった。雑誌『七十年代』を創刊後、やっと胡適をずいぶんと読むようになった。読めば読むほど胡適が中国現代思想にとってどれだけ重要か痛感した。
1919年に五四運動は起こったが、「五四精神」を象徴する新文化運動は「その数年前に始まっていた」と胡適は1935年に五四運動記念の文章で述べている。それは、「広義の五四」は、民国6(1917)年から翌年にかけての「民主と科学」掲げた思想運動にあり、それが社会に与えた影響は具体的には口語文の普及であり、思想上では「個の解放」で、それは「独立の精神と自由の思想」だった。この口語文普及と個の解放こそ胡適が始めたものだった。近年、大陸の知識人が胡適をこう語った。
胡適孔子に次ぐ第二の聖人で、思想で見れば中国人が<自由>を認識したのは胡適から始まったことで、文化で見れば胡適がいなかったら口語文の発生はなく、文化が広範に普及しなかった。かつて胡適を評した逸話で「胡適が全てを創造した、しかしどれも完成を見なかった」というのがあるが、それでも「偉大」ということだ」
私もこの評価に同意する。
胡適がその1935年に五四記念で書いた文章は「個人の自由と社会の進歩」というもので、胡適はここで個人主義には2つがある、としている。一つは「ニセの個人主義」はエゴイズムであり、これは自分の利益ばかりで人々の利益は考えない。もう一つは「真の個人主義」で、これは個性主義(Individuality)であり、他人の耳や眼、その考えにとらわれず、独立した思想をもち、かつ自分の思想信仰の結果には全て責任をもち、権威や監禁、殺されることを畏れず、個人の利害を考えず真理を追究することである。
胡適の<自由>の解釈は「自由は外からの拘束に対抗し自由を得ることで、その独立がないことは即ち奴隷で、独立は盲目的に従順ではなく、他人に惑わされず頼らず、それが独立の精神」ということ。個人の独立がなければ自由はない。
胡適は生涯、どの政党にも加担しなかった。魯迅と同じで、腹黒い連中が組織する政党に収まってはいけないと考えた。それでも胡適は政治には「関心がないという関心」があり、これを知識人の責任とした。
胡適公園のなかに格言の壁石がある。その丈夫には胡適の手書きによる一文があり、そのなかに范仲淹の「寧鳴而死,不默而生」(泣きわめくことは死、黙らぬことは生)とあり、また胡適が台湾で『自由中国』の編集長・雷震がその言動(蒋介石政権批判)により投獄された時に雷に送った手紙にある宋代の楊萬里による一首がある。
萬山不許一溪奔,攔得溪聲日夜喧
到得前頭山腳盡,堂堂溪水出前村
(一筋の渓流は山々にその流れを拒まれ、それでも渓流の流れる音は絶えず、やっと山並みが切れるところに至り、渓流は辿り着こうとする村に到る)
今日の香港人が熟考に値する文もある。「学問をするには疑わぬところに疑いをもつことが要り、人を信じるには疑いをもたないこと」。社会の陥落、善悪の転倒、学究の欠如は、この胡適の考えと全く逆で、学問をするにも疑うべきところを疑わず、人を信じるにも疑いないところを疑っている。
胡適は、妻の江冬秀と合葬されており、その墓の傍らには長男・胡祖望とその弟・胡思杜の墓がある。祖望は2005年に亡くなった。思杜は1949年(胡適家族が国民党政府とともに台湾に移る際に)大陸に留まり、翌1950年に香港の大公報に反動的な父(胡適)との絶縁を公表している。その思杜は反右派闘争に巻き込まれ1957年に36歳で自殺したが、胡適はその5年後、思杜の死を知らぬまま逝去した。思杜の墓は兄の祖望が建立している。
小雨で空は泣いているようにぼやけている。

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このBloomberg Businessweekなる雑誌の中文版(5月15日号)路上のキオスクでもかなり目に止まる表紙のデザイン。特集記事は中米貿易対立の煽りで中国に工場を置いた台湾製造業が関税の影響で続々と製造拠点を台湾に戻してゐる、よつてMade in Taiwanの製品が増えることで、この表紙。

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特集記事の中表紙も見開きで、かなり総力特集かと思ひきや記事ぢたいは2頁で「えっ?」といふ拍子抜けだが記事は面白い。台湾の製造業が台湾の工業インフラ不足と大陸の安い資源、人件費に惹かれ製造拠点を大陸に置いてきたが折りからの中米経済摩擦と関税措置で台湾に製造拠点戻す勢ひがつき、その規模、台湾経済部は当初、NT$1000億(3500億円)規模と見積もつたが4月の統計ではNT$2000億で台湾のGDPはこれで1.1%上昇する程で中米摩擦で台湾は製造業が活気を呈してゐるといふ。台湾のインフラも進み電気や水の安定供給、運輸が改善されたこともあり。台湾経済部によれば5月はNT$2800で最大NT$5000億(1.75兆円)まで目標値を設定するほどの勢ひ。何十年と続いた台湾の不況は、その要因として製造業の大陸進出が大きかつたが中米経済摩擦で思はぬ好況材料に。よつてMade in Taiwanの製品が目立つてくるのでは、といふ。中共は大公報で民進党蔡英文政権になつて台湾経済がどれだけダメか、と揶揄。

蔡執政三年 台經濟沉淪

中共が国民党支援するといふのも蒋介石があの世でこれを知つたら、さぞや怪訝に思ふことだらう。