富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

夏来りぬ

農暦三月二十日。快晴。気温は摂氏31度に至る。いつの間にか一気に猛暑猛々しい夏がまた来てしまつた。

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香港大学図書館の蔵書で舒國治著『窮中談吃』読む。

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台湾の普通に美味いものを筆者が若い頃から懐かしみつつ回顧。今でいえば「B級グルメ」本だが何よりも舒國治の見事な筆致。それゆえに他に誰にもこれは書けない。それにしても「中文だから」の味わい。同じ内容を和訳して、この舒國治の文章の味わいが出せるかというと多分、無理。これを読んで大学の学食で台式の牛肉麺食べたが、けして美味しくなかった……舒國治の指摘を待つ迄もなく牛肉麺は戦後の台湾のソウルフードの一つだが牛肉麺は台湾、台北なら桃源街あたりに限ると痛感。

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佐藤忠男先生、1930年のお生まれで御年八十九か。もう十年以上前だがアタシも狂つたやうに香港映画祭で貪るやうに映画を見てゐた頃、スペースミュージアムで映画祭に合はせご来港の佐藤先生ご夫妻をお見かけ。面識も全くなかつたが、ついお声かけしてしまひ突然のことなのにご夫妻は笑顔で香港在住の日本人に話しかけてくださり「本当は毎年、それも何日も映画祭にゐたいのだけど何しろ年も年で」と謙遜されてゐたが、立ち話でも先生の温かい人柄がよくわかる。佐藤忠男の映画評や映画論は何冊も読んでゐるが、この『見ることと見られること』は、まるでそのまま吉野源三郎あたりと並べて若者の必読図書にでもなりさうな内容。

(BOOKデータベース引用)かつて人は、共同体のなかで他者の視線を浴びながら自己を形成していた。メディア社会の現代では、見る/見られる関係は大きく変容する。視線を浴びる人と見るだけの人に分化した現代人の危機。どんな時代でも、誰かのまなざしに見守られることが人間には必要である。映画評論の第一人者による視覚文化からみた現代社会論。

ルース=ベネディクトの『菊と刀』でキリスト教世界の「罪の文化」に対して日本は「恥の文化」とされたところから思考は始まり、そのステレオタイプな見方に対して洋の東西問はずヒトは「見ることと見られること」で自らにモラルのやうな条件をかけ、さらに誰にでも晴れの場が与へられることで(結婚式のやうな)、そこで祝福する側もされる側も晴れがましい気持ちになることでお互い、自らの存在の意義を見つける意識が生まれる……と、さういふ人生訓的な、だが佐藤先生なのでとても優しく読者に語りかける。そこから、その「見ることと見られること」がメディアの介入となりメディアの中で我々はどう……といふ思索に続く。また、さういふ見られる側の立場に立脚した戦後のドキュメンタリーを中心とした東西の映画に話がゆく。最後の長谷川伸椎名麟三の話は一寸そこから逸れてゐる感もあるが。余談になるが「見る文化の一つの極限を示しているのはポルノと残酷もののビデオかもしれない」といふ発想が凄い。映画にもポルノや残酷ものはあるが、それを見るには恥ずかしさのなかポルノ専門館とかに入らねばならず映画館内が暗くても他の客の視線を感じる。そこでは完全に破廉恥にはなりきれなくて、レイプ場面でも上映される映画はあくまで勧善懲悪の形式をとつてゐるからレイプ場面を見るのがお目当てでもレイプは最後には罰せられるといふストーリーになる。エロを見るつもりが原則として、さうしたストーリーを全部見た上で一応は「レイプは悪いこと」といふ常識的結論に達して映画館を出ることになる……かういふことに言及する佐藤忠男がとても新鮮。それに対してビデオはレンタルしてきて見たいシーンだけを自室で繰り返し見ることができ、さうしたシーンばかりを集めたエログロ作品だつてある。それを好きなだけ見られる究極の自由。そこでどんな妄想に囚はれるも自由。かうなると「見ることと見られること」が分化分裂しすぎて良くないのだ、と。卓見至極。

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