富柏村香港日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴る日剩でござゐます

バルバラ=吉田=クラフト『日本文学の光と影』

農暦三月十七日。朝九時過ぎに筲箕灣。シャトルバスで鯉魚門公園及度假村(Lei Yue Mun Park and Holiday Village)へ。鯉魚門海峡は香港島と九龍を隔てるヴィクトリアハーバーでも最も幅の狭いところで嘗ては海賊退治の名所だつたが英国が軍事拠点として海峡岸から背後の小高い丘まで23ヘクタールの広大な敷地を占有。日本軍も九龍からこの海峡渡り香港島へ進軍。軍営は1986年に閉鎖となり敷地は東区走廊(Eastern Highway)拡張で南北に分断され南側の丘が軍営の古い建物を利用した康楽施設となり海峡に面した海軍施設は海防博物館に。この施設は2003年のSARS疫禍の際に疫病蔓延とされた淘大花園(Amoy Garden)の住民が隔離されたのも此処。海防博物館訪れ、また柴湾道からも見下ろすばかりで、この旧軍営に足を踏み入れたことがなく「近くの秘境」だつたが家人の話で公園とは言つても野営場で日帰りでも「日営」デイキャンプ扱ひで予約が必要。数日前、網上で確かめると予約は3ヶ月前とかあつてダメ元で電話して見ると今日の日曜なら入場枠にまだ余裕ありといふ。これが昨日だつたら午後の嵐で大変なことになつてゐたが。筲箕灣からのバスで到着すると朝から家族連れとかが子ども相手のレヂャーに遊び長閑な環境。ウォークインで登記済ませ入場料一人HK$27払ひ職員にどのレヂャーに参加するのか予約をといはれるのを「歩きまわるだけで」とご遠慮して早速、見学。

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20世紀初頭から順に建てられた軍営施設。兵舎が今は宿泊施設。四連休で宿泊者も少なからず、どの部屋も外から見られるのを厭ひカーテン閉め冷房がん/\でキャンプの風情もない。この広大な敷地内に香港ジョッキークラブ主管の公営乗馬場あり。長閑なもの。

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一時間余で散策も済ませ復路のシャトルバスは午後1時までないが山を下り阿公岩道に出て今は半分取り壊して高層マンション建設されてゐる明華大厦*1の中を抜け崖の階段を筲箕灣に下りたが今ではここも昇降機完備。

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連休中の筲箕灣は昼前でもすでに安利魚蛋粉麵とか行列で「阿一」といふ酸辣米綫屋で紅油抄手米綫を啜る。

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午後は在宅、読書。夕方から早酒。

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辣韮を甘酢に漬けしは清明節 堪へに堪へつゝ二十日と待てず

日本文学の光と影―荷風・花袋・谷崎・川端

日本文学の光と影―荷風・花袋・谷崎・川端

 

バルバラ=吉田=クラフト『日本文学の光と影』(藤原書店)読む。

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吉田秀和先生の奥様で独逸で戦後、中国文学の研究から始まつたバルバラさんは当時、中共に入れず同じ漢字を用ゐるなら、と日本へ。秀和さんと結ばれ日本文学の研究に勤しむことに。そこで日本文学でも「日記」や随筆、女流文学の研究に立派な業績あり。日本がどう西洋を文学から受け入れていたか。例へば田山花袋柳田国男との話で(我々の間では)「諾威の山の中にいる青年、フィヨルドを背景にして住んでいる少女、ステップの中の貧しい農夫、パリのセイネ湖畔の洗濯女……」さういう人物がすぐに頭の中で、と語られてゐるが確かに巴里に遊んだことがなくとも「パリのセイネ湖畔の洗濯女」といはれるとイメージが浮かぶ、さういふ訓練を我々は花袋や柳田に限らずとも子どもの頃から受けてゐて勝手に西洋を模倣し始める。バルバラさんの自然主義文学への懐疑、それは花袋や藤村にだが、これはアタシも感じるところ一緒で、当然、その真逆に康成の変態性に近い勝手な自我の美意識の世界や江戸や漢籍も心得あり西洋の観念も受け入れた上で見事な近代日本の文章を完成させた荷風散人の『濹東』や断腸亭日剩へとバルバラさんの関心は向く。その荷風の都市人間性は今日でも今月も新宿・紀伊国屋サザンシアターで『正午浅草』なんて荷風芝居が演じられてゐるさうだが、それはバルバラさんの指摘通り荷風にとつて東京(江戸)が精神的背景(フォーリエ)になつてゐることへの都会人の感銘で、たゞその関心だけでは荷風の文学的意味が疎かになる。そこでバルバラさんは何と断腸亭日剩、さすがにこれのドイツ語への全訳は不可能だつたが日剩の内、1937(昭和12)年を完訳。この年は日本が戦争とファッショに突き進むなか荷風が『濹東綺譚』上梓してをり、日剩の中でも大変貴重な年と位置づけてのもの。バルバラさんの日本文学への言及は読んでゐて実に面白い。日記が日本において土佐日記の昔から文学にまで昇華してきた歴史、清少納言から兼好、荷風までの随筆の世界。そして三島由紀夫まで。三島の『愛の渇き』の有名な一節

人々の頭上を、突然金いろの歯をむきだして、獅子頭が波立ちながら別の鳥居のほうへ移って行った。忽ち混乱が起り、人波は左右へ分けられる。悦子の目の前を、眩ゆいものが一団になってよぎった。それは焔に映えた半裸の若い衆たちの一団である。……その栗いろの半裸は忽ちぶつかり合い、堅い肉と肉とがぶつかる暗澹とした響きや、汗に濡れた皮膚と皮膚とが貼りついて離れる明るいきしめきが……

これをバルバラさんは「レーニ=リーフェンシュタインを思い出す」とは何といふインスピレーション。まさに。ただバルバラさんは、この三島らしい「堅い肉と肉とがぶつかる暗澹とした響きや、汗に濡れた皮膚と皮膚とが貼りついて離れる明るいきしめき」なんて比喩が、どれだけ非現実的なもので勝手な演出であるか、といふ指摘も忘れない。その上で「現実をこのように特殊な方法で美化すること、言わばイデオロギー的な遺伝子(ゲーン)を植え込まれた美化という点こそ問題ではないか?」と。鎌倉雪ノ下に住まふバルバラさんの東京でのお気に入りは銀座三笠会館の法蘭西料理の榛名。元々、研究を志した中国に初めて渡つたのは1979年になつてから。この本はバルバラさんの逝去(2003年)のあと吉田秀和らによつてドイツ語で出版されたものの和訳が主で追悼書。

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そこに知己たちの追悼の文章もいくつか納められてゐるがアタシは加藤周一はやはり苦手。

私は今彼女を思い出したことを思い出す。
北米のロングアイランドの林の中で私は彼女を思い出した。ふと足もとを見ると、親指の先ほどの乳白色の小石があり、その磨かれたような表面が晩い午後の光にしっとりとかすかに輝いていた。すると突然彼女を思い出したのである。(略)もちろん路傍の小石に市場価値はない。しかしそれを拾い上げ、見つめ、指先で愛撫する人にとっては、限りない勝ちがあり得るということを私に教えてくれたのは彼女である。

周一さんは自本位するぎ。そしてバルバラ追悼で最も心をうたれるのは夫である吉田秀和のもので、それも本書ではなく、この本に挟まれた藤原書店の『機』2006年11月号で、この書籍とバルバラさんの半生を紹介する秀和さんの悲しみと喜びを一切押し殺した、淡々としたルポルタージュのやうな一文なのである。

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晋三の大阪行きはあくまでG20開催視察のためとされたが維新相手に劣勢予想された選挙で応援にも入れず、なんば花月でお茶濁してせめてもの話題作りなのは明らか。で、今日の選挙で自民は維新に惨敗。大阪を甘く見ちゃあきまへんで!

*1:公共団地でMing Wah Dai Haといふ名前も珍しいが「明華」は香港聖公会の主教であつた英国人のRonald Owen Hall(1895〜1975)が香港で民生活動にも熱心で公共団地整備のための香港Housing Authority創設にも関はつたことで、この主教の中国名を頂く。