富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

古地圖看台北

農暦三月十五日。耶蘇受難節で今日から四連休。朝イチで銅鑼湾、散髪。ジムで少し走り誠品書店をぐるぐると徘徊して帰宅。午後、黄色警報発令の豪雨。今日は誠品書店で書籍は購はないと決めてゐたが、つい面白さうで購入の『古地圖看台北』秋恵文庫監修・高傳棋著(玉山社刊)眺める。

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1895年に台湾の日本統治が始まり1910年までに台北城市を取り囲む城壁が壊されるが、それまでは1901年「改正台北市街全圖」博文堂(台北城内撫台街←日本統治からまだ5年で地名は日本名になつてをらず)を看ると「城内」と龍山寺門前町から発展した「艋胛」それに淡水河沿ひの古くからの商業地の「大稻埕」は未だ水路や田んぼ、墓地で隔てられてゐる。

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城内は台湾総督府による都市化が始まったものの三井物産や米国、独逸の領事館等が大稻埕の沿岸にあるのがわかる。この三つの地域をまとめて台北の近代都市化は着々と進み、それは後藤新平らの活躍する時期。

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1930(昭和5)年の台北市街鳥瞰図。戦争が始まる前の日本統治の台北にとつて一番平和で繁栄してゐたころ。右(北)が圓山に建立された台湾神社で宮前町から大正町を抜け(現在の中山北路)鉄道線路を越えて旧城内に入るとずらりと官公庁や民間企業、商店が密集してゐる。それでも市街は北は御成町から宮前町(今の中山北路)から西は墓地があり、その先はのどかな水郷。西も城内から見れば樺山町(現在の導善寺)あたり迄で今の新生南路も郊外の水路。南は南大門の先、今の信義路から向かふは児玉町、千歳町が僅かに拓けてゐるくらゐで此処が今の観光客にも人気のある永康街のあるあたり。歩いて回れるほどの市街。日本敗戦と撤退で戦後は国府入城となるが興味深いことに、日本統治時代は精密な測量と地図作成が続いたが大陸光復目指す国府にとつては台北は臨時首都に過ぎず1960年代からの本格的な台北の都市化始まるまで台北の都市計画は実行に至らず都市地図も少ない。

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これは1957(民国46)年の台北市街道圖(民国政府内政部刊)で稀にみる実測の戦後初の多色印刷地図。これを看ると舒國治『水城臺北』に述べられる戦後の台北の地形が手によるやうにわかるので面白い。この書籍に数ある地図のうち異色放つのが1959年に中共人民解放軍が作成した台北市街図。

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当然、戦時の空爆等も想定にある地図で国府の政府機関や軍施設、それに多くの米国関連施設も詳細に記載されてゐる点が興味深い。戦前の台湾総督府が作成した精緻な地図を入手し、それを元に国府に取り入る内偵者からの情報などをもとに作成。昔の写真も数多く掲載されるが、そのなかで初めて見て興味深いのがこれ。

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日本統治時代の御成町の東、三板橋墓地にあった明石元二郎総督の墓。日本敗戦でこの墓も廃されたが今は林森公園となり、その墓の鳥居が現存。此処に国府入城で外省人バラックが密集して建てられ、その明石元二郎墓の鳥居もバラックの構造柱になつてゐた貴重な写真記録。1990年代初期も、まだそのバラックが残つてゐて山東省から来た老兵が営む美味い餃子屋があった。

だが、これに続く近代天皇制が「伝統」を創設したという認識は正鵠を射るもの https://t.co/8tkix5hser

ちなみに紙面の一面トップは香港ではすつかり人望なき成龍(ジャッキー=チェン)が香港芸能界代表し北京中央に香港の映画音楽産業の内地での優遇に、といふ提灯記事