富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

Stanley

農暦三月初八。学校ノ合宿?ノヤウナ施設で大切ナ長傘ヲ失クス夢ヲ見ル。雨。気温は摂氏22度ほどに下がる。昨晩からの雨模様は本来ならこの時期、春節明けで三月から四月は香港のどんよりとした雲と湿気は春らしいものなのだが雨が降つたのなんて何時以来かしら。午後、小雨のなか久しぶりにStanley(赤柱)に往く。赤柱は香港観光スポットで観光客相手の土産物屋並ぶが近年客足落ちてゐるといふ。シャッターの降りた店舗少なからず裏道はさらに空き物件目立つ。

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観光化されたアーケード街一歩路地に入ると苫屋密集の集落もあり。

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歩いて10分ほどのSt. Stephen Collegeへ。折からの大雨。中文大学のイベントで日本から来港の和仁廉夫氏が地元の学生を対象に雨のなか歴史散歩講義。この地は戦時中、英国の野戦病院であつたが香港陥落で捕虜収容所に。日本軍に対して野戦病院ゆゑ攻撃避けるやう呼びかけたが1941年12月25日、英国降伏の日にはこゝも襲はれ死者多数。香港陥落で犠牲になつた戦死者の墓地あり。

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路線バスで大潭を抜け西湾河へ。太安樓は侮れない。サイドビジネスで牛雑の屋台を出したら行列ができてしまつた基記水電工程の牛雑は独立店舗となり隣のブースの海南鶏飯も評判で、その隣の滋味屋といふ総菜屋も長蛇の列。

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後藤新平没後90年「デスマスクの謎を追う」誰の発案?一つが台湾の寺に - 毎日新聞 https://t.co/iP1smpMEXP

後藤新平(1857-1929)は台湾では第4代台湾総督・小玉源太郎の下で民生局長(後に民政長官)として台湾のインフラ整備に尽力し台湾では評価高いが台北臨済護国禅寺に新平のデスマスクの一つが納められてゐるのだといふ。

新平一周忌前に新平と懇意だつた台湾の親日御用紳士たる辜顕栄(辜振甫の父)が同寺に新平のデスマスクを寄贈の由。このデスマスクは家族の意思で三つ造られたさうだが残り二つは行方知れずといふ。

台湾について中共が主権主張する一方、米国の関与。これについて陶傑先生曰く米国の台湾間よは1945年10月25日の出来事に遡る、と。マッカーサーは日本敗戦にあたり台湾の日本軍は中華民国最高指令・蒋介石に投降するやう命じ蒋介石はこれを民国陸軍上将に何應欽託し何将軍は福建省主席陳儀を台湾に遣り日本軍からの受降をさせる。これにより民国的には台湾接収したことで本来は清朝のあと民国に台湾管治権が有効であるところ日本により50年佔領され「その主権回復がされた」となる。しかし、その台湾が日本主権を離れた日(1945年10月25日)の式典ではなぜ青天白日旗とともに米国国旗が掲げられてゐるのか。米国にしてみれば台湾は米国の太平洋戦区にあり米国は民国が台湾光復とすることは承認せず、あくまで民国が連合国側の一員として米国に代はり台湾を占領するものを認めたものと陶傑先生。蒋介石もこれを黙認してゐる証拠に陳儀の台湾での官職は台湾省長或いは台湾省主席に非ずして台湾行政長官*1蒋介石は1949年1月12hいに副総統・陳誠に書簡を送り「台灣法律地位與主權在對日和會未成之前,不過為我國一託管地之性質」と述べてゐるといふ。1952年に民国政府と日本は日華平和条約締結し日本は「台湾澎湖の主権放棄」となつたが重要な点は主権放棄しつゝ、それが中華民国に戻ると明言されてをらぬこと。翌年、桑港平和条約締結でも、これは事実上対米条約だが、そこでも「台湾澎湖の主権放棄」を謳ふものゝ主権帰属がどこかは述べず。その後、蒋介石は台湾行政長官の官職を台湾省長として、その末代が宋楚瑜で台湾「廃省」したのが自身も台湾省長を務めた李登輝総統。この台湾を「日本は放棄したものゝ帰属先明らかにせず」により今以て米国の台湾関与が続くことになる。米国の民国断交で台北に米国大使館はないが「米国在台協会」こそ中共の香港にある中聯辦のやうなもの、と陶傑氏。

*1:大陸の日本占領地は日本軍投降後は以前の省に戻り省長を指名。