富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

農暦二月廿八日

農暦二月廿八日。陋宅の近くでは鰂魚涌の益發大厦に印度食材店があつたが此処は映画〈トランスフォーマー〉で話題となり「淫巣多映へ」で訪れる人多くなり樓下にあつた小汚い商店もお洒落なカフェなど進出で家賃上がり贔屓の印度食材店は暫く前に立ち退き。

f:id:fookpaktsuen:20190405103701j:plain
f:id:fookpaktsuen:20190405103708j:plain

早晩に家人と外食といふことで太古坊に近い印度料理店“Tulsi”に向かつてゐたら英皇道に看板見かけ路地を入ると突き当たりに印度食材店を見つける。

f:id:fookpaktsuen:20190405092715j:plain
f:id:fookpaktsuen:20190405092720j:plain
f:id:fookpaktsuen:20190405092711j:plain
f:id:fookpaktsuen:20190405092707j:plain

何がなくても印度である。どんな食材も印度の香辛料でならどうにか食べられる味となり、どんなに食文化の貧しいところでも印度料理屋に入ればまず間違ひない。

元号を考える - 毎日新聞 https://t.co/cwE2Cqp6kP 明治元年に一世一元を取った政府の発想に天皇の権威性を高めるためといった発想はなかったことだろう。ところが明治半ばでの皇室典範の整備その後の戦争へと向かう過… https://t.co/tq1BrB0hq8

「時代に即した法制度に」加藤陽子・東京大教授(以下、要約)昭和から平成への改元天皇崩御によるものだった。今回の譲位による継承は天皇には自然的身体と政治的身体の二つがあると国民にわからせた点に画期性がある。(略)一人の天皇に一つの元号を対応させ、それを追号崩御後の称号)にも用いる「一世一元制」は近代になって新たに創られた制度だ。慶応から明治へ改元する際、岩倉具視らが一世一元にした背景には、ある意味で冷静な合理主義があった。元号を変えようが変えまいが災害や飢饉は起こる。よって何回もの改元は「流弊」であり廃止すべきだと。ここで注目すべきは明治元年に一世一元を取った政府の発想に天皇の権威性を高めるため、といった発想はなかったことだろう。ところが明治半ばでの皇室典範の整備、その後の戦争へと向かう過程で元号と一世一元制は天皇の政治的な権威と不可分なものとされていった。よってアジアの人々や自国民を存亡の危機に陥れた戦争後、元号廃止論が出てきたのは自然な流れだったろう。1950年の参議院文部委員会で委員長の田中耕太郎は日本国憲法の精神からいって独立講和を前に元号をやめ「文明諸国共通の年号計算」たる西暦に一本化してはどうかと発議した。改元を規定する旧皇室典範や登極令が廃止された(1947年5月)ことで元号法の制定をみる1979年までは実のところ元号を裏付ける法的根拠はなく宮内府の発した通牒「従前の例に準じて事務を処理する」のみで運用されていた。元号廃止が現実のものとなる可能性などもあったのだ。1979年の元号法制定の流れを草の根から作ったのは後の「日本会議」につながる右派勢力であり、この日本会議安倍晋三首相の支持基盤の一つとして今や知られる存在だ。当時の世論調査からは20~30代の人々の7、8割が皇室に「親しみ」を感じていなかったことがわかる。このような状況では国家や民族に対する国民意識を保てないと危機感を募らせた政財界の一部が右派に連動し元号法は成立した。今回の一連の動きが示したとおり元号法政令(内閣による命令)で元号を定めるとしたおかげで内閣は改元への関与を格段に強められるようになった。また注目すべきは、元号法の付則に「昭和の元号は本則第一項の規定に基づき定められたものとする」との文言があったことだ。1926年に始まった昭和という元号が1979年になって遡って正統化されたのだ。その意味の重さを思えば元号法制化が大きな歴史の分水嶺だったと今になって理解できる。元号法が旧憲法下で定められた昭和をたやすく再定義し得たのなら同法自体も天皇が譲位する時代にふさわしく今後改正できるはずだ。

「たおやかな大化の改新島田雅彦・作家(以下、要約)平成の31年間、世相の変化はめまぐるしかったが「昭和1桁生まれ」「昭和30年代ブーム」のように「平成10年代文化」といったくくりはされそうもない。だからといって平成という元号が忘れ去られるわけではない。今の天皇、皇后両陛下はご結婚時から戦後の大衆天皇制の主役だったが即位後は国民の痛みに寄り添う「いやし系天皇、皇后」となった。両陛下の真摯な祈りの姿が平成を象徴しているように思える。(略)そもそも日本初の元号、大化が生まれた7世紀、朝鮮半島情勢の緊迫化などで倭国(日本)は唐に属国化されかねなかった。(略)目下、東アジア情勢流動化のただ中にある日本は為政者が全く危機に対応できていない。改元で政治の劣化が防げるとは思わないが改元を促したのは天皇陛下であり現状の政治への不満を口にできないお立場から嫋やかな大化の改新を実行されたと解釈すると何かすがすがしい気分になる。歴史を画す改元の影響力が悪政を改める方向に働くことを願わずにはいられない。