農暦二月廿五日。曇。昼にかけジムのトレッドミルで走つてゐると驟雨。陋宅の窓を開けたまゝ。誠品書店(太古)で立ち読みして帰宅、書室の図書整理。
晩にNHKで昨日放送の「天皇 運命の物語」シリーズで「皇后美智子さま」を見る。映像はこれまでの放映で使はれたものだが十歳の御年で疎開先で「なかなか折り合ひのつかない自分との関係」に悩まむことがあつたといふのだから。この悩みは恐らく今日まで皇后さんにとつて自分がだう在るべきかの問ひなのであらう。舒國治『水域臺北』読む。台北に往く前に読めばもつと面白かつたといつも思つてゐたのだが主に1990年代に新聞付録雑誌に掲載された台北に纏はる昔語り。1980年代から台北で大規模な都市再開発が始まるまで曾ての東京がさうであつたやうに台北も多くの疎水が流れる水の都市。それが塞がれ暗渠となり、埋め立てられ道路となり台北から「水域」の記憶すら薄れてゆくが東西に走る太細の碁盤の目のやうな区画道路のなかに地図を見ると確かに斜路や婉曲した道路が幾筋もあり、それが曾ての川なのだといふ。
台北から昔の記憶が失はれてゆくなかで1960年代からの当時の台北の街並み、郊外への遠足や夏の川遊びなど。舒國治は邦訳はないやうだが1952年生まれで映画制作に従事し、その後、紀行や飲食得意とする散文作家となつたが、このテの回顧談は「よくあるが」舒國治らしい素養と筆致で見事な散文集となつてゐる。台北から基隆、宜蘭に向かふ東往の鉄道で五堵、七堵、八堵といふ地名も面白いと思つてゐたが南部の一戸、二戸、三戸、八戸は集落を数へるが、この「堵」は基隆河の堰止を台北から上流に数へたことに由来する由。
来たる3月31日は6世中村歌右衛門没後18年の祥月命日。その日を前に大成駒現存最古(?)の動画を発見。1950年9月の東劇で満33歳の八重垣姫。どれだけ動いても上体が反り下体が前に出た盤石の構え。これぞ若女形の骨法。今の役者が学ぶべきは、この強靭な腰に支えられた身体性。https://t.co/uuLKHaoihe
— 村上湛 (@PontmrcyMarius) 2019年3月26日