富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

長谷川郁夫『吉田健一』

農暦十二月晦日。曇。立春なのだから暖かくなつてもいゝのだが気温摂氏25.5度で観測史上66年ぶりの高温の立春なのだとか(東京も19度)。それにしても1953年の27.8度といふ茹だるやうな立春とは。早晩に中環。知己と除夕の会食でFCCでと約してゐたが何たる不覚、FCCも今日は大晦、夕方四時で閉鎖。慌てゝさてどこかとなり上環の印度料理バスマティへ。客を待つ間にキングフィッシャー啤酒飲みながらの読書が心地良い。

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澳門フェリーターミナルのある建物をコンノートロードの向かひに広く見渡す大きな窓。給仕の、服装こそカジュアルだが見事なお給仕の作法は見事。帰宅して一昨日から耽読の長谷川郁夫『吉田健一』続き読む。

吉田健一

吉田健一

 

吉田健一をアタシは生前、リアルには知らない。昭和の終はり頃か何かの文芸誌で健坊のあの印象的な痩せた猫背姿と笑顔で両切りのショートピースを美味そうに吸ひ片手には酒のグラスの容姿を写真で見て強烈な印象に「この人は誰?」と思つたら吉田茂の嫡男で、父とは全く世界の違ふ文芸の世界の人で已に故人。アタシのかなり幼い時の記憶の一つに吉田茂国葬があり、水戸の伊勢甚といふ百貨店の前で、それを伝へる新聞の号外が配られてゐた記憶があり、その日同じくしてなのか水戸の大学生たちがデモ行進してゐて祖母に「学生になつて、あんなことちゃダメだよ」と言はれたおぼろげにある。昭和46年末から朝日新聞文芸時評担当された時期もあり、その時には家で朝日新聞購読してゐたが、それを読むには幼すぎた。つまりアタシは吉田健一とは同じ時代を共有できてゐない。だが、あの「ケケケケ……」といふ甲高い笑ひ声もよくよく考へて見ると一度も映像等で聞いたことはないのに、それは写真から勝手に聴こえてゐたのだらう。今、一度あのケケケ笑ひを実際に聞いてみようと思ひネットで漁つたが吉田健一は同名の有名らしいアニメの映像作家の映像ばかり。昭和52年に亡くなつたのも、その前年の周恩来、毛澤東逝去はよく覚えてゐるが、この文芸家の翌年の逝去は全く関心もなかつた。だが後になつて、この健坊の書く戦後は自分のなかでかなり同時代的に自分のものになつてゐる。それにしても昭和51年に吉田健一東京會舘で倒れたのは大岡昇平朝日賞受賞祝賀のパーティで相変はらずいつものやうに酒を浴びるほど飲み甲高い笑ひ声を会場に響かせてゐたのが倒れ、立食のグラスや料理ののつたテーブルも倒れ本人は、そのグラスの破片で左手を切り、かなりの血が流れたが別室での応急処置のあと飲み直しで会場に戻り最後まで飲み続けたといふ。死の直前の聖路加病院でもまるで点滴のやうにギネスを飲んだといふ。神保町のビアホール・ランチョンもアタシも高校生の時には(もう火事のあと立て直しのビルだが)昼食に寄つたこともあるので、もう少し早く生まれてゐたら吉田健一を直に拝むことができたのに。アタシは清酒は家で、外でもそれがあれば菊正宗しか飲まないが健坊もさう。銀座で辻留か岡田、烏森口の新富寿司でキクマサばかり。たゞし文章が売れてからは健坊宅には菊正宗から特別仕込みの樽酒が届いてゐて、これがまた美味だつたといふ。……ついアタシにとつての吉田健一のことを書いてしまつたが、この小澤書店店主・長谷川郁夫による巨編『吉田健一』は戦後の復興期の銀座、三十間堀を眺める出雲橋たもと(今の銀座7丁目、昭和通りの角)の小料理屋・はせ川から話は始まる。吉田健一にとつての大切な文人河上徹太郎の回想(出雲橋界隈)より。

そこへヒュッと入ると、石川淳が一人でその窓際に坐つて、初夏になると川風に吹かれて鰹なんか食つてましたね。夕方になると盛装した芸者が二、三俥を連ねて出雲橋の上を木挽町へ向つて行く。その下をたまにアベックがボートを漕いでくぐる。

この昔の水の都が目に浮かび一気に、この伝記に引き込まれる。
  東京は水の都のかすみかな 万太郎
はせ川は久保田万太郎が世話をやき俳人・長谷川春雨夫妻が始めた食肆で、そこに徹太郎、永井龍男、夷斎先生や小林秀雄中原中也大岡昇平ら若き文人が屯する。この伝記の主人公はなかなか登場しないが昭和9年、永井龍男の書いたものに「常連のひとりの青年」が登場する。はせ川のテーブルにナイフでなにか懸命に削つてゐる。それが吉田健一、当時22歳。その刻む文字は文圃堂主人・野々上慶一によるとRESERVED K.YだかRESERVED KENICHIだつたといふ。そこは横光利一のいつもの席なのだが。河上徹太郎をして健一先生は、その仲間に入り酒を飲みつづける。死ぬまで。以下、覚へ書き。
吉田健一の名、健一は父・茂が養父・健三の「健」に因んだもの。
−戦前から戦時中の軍国主義には反対の吉田健一であつたが堀田善衛に「堀田君、これでわれわれも植民地をもつことが出来たから、英国人程度の生活が出来るようになるね」と語つてゐる。太平洋戦争回線では当時の知識人の一般的な感覚なのか、どこか晴々しい気持ちになつてゐる。
−空襲で牛込区払方町の借家から焼け出され敗戦直後は鎌倉の借家で貧窮の暮らし。昭和28年にその牛込の借地に戻り家を普請するとき「交遊録」にも登場する「友」吉田茂に頼り借金を試みる。当時、首相の茂にアポを取ると指定された日の時間は午前三時。父はその時間に机に向かつて物書きをしてゐたといふ。
−昭和28年夏の吉田健一にとつて戦後初の、実に23年ぶりの訪英。マンチェスターで当時は酒場の終ひは午後九時半。酒徒の健坊にはつらい。ホテルのラウンヂでナイトポーターに命じればチップを渡し酒が飲めると聞き事なきを得る。何時までか?とポーターに尋ねると答へは All night, Sir であつた。朝食ではウイスキーである。
吉田茂の親米、小軍備經濟優先の方針は今の晋三の時代になると、このリベラリズムが浦山しい。健一は父のこの路線を強く支持する。日本が米国の奴隷となつてしまふことだけ懸念するが現実にはあまりの従属で、その憂ひ通り。昭和30年一月発行の文藝春秋緊急増刊(吉田内閣総辞職)に寄稿の「父よ、あなたは強かった!」で

吉田内閣が漸く総辞職して、皆ほっとした気持ちになり、国民の表情は明るくて、やはり正義は勝つというので心温る思いをしているかどうか知らないが、先ずそういうことを言って置けば安全のようである。……(に続け「ほっとしている」のはまずは「吉田茂氏自身」であり次は筆者自身としてゐる)

-昭和30年に麻布鳥居坂国際文化会館開館に際して開館日に吉田健一もお招きあり。その数日前にすでに公式の開館前から此処に福田恆存が泊まり込みシェイクスピア翻訳の仕業中で、そこのバーで(これは現存しない)健坊は倫敦から来てゐた知己と三人で飲んでゐる。
−同年、江頭淳夫なる慶應の学生が『三田文学』に投稿した夏目漱石論で吉田健一は格好の標的にされ批判されてゐるが、この青二才の吉健批判はあまりに稚拙なるもの。
-三島由紀夫の市ヶ谷大本営での蹶起について「その死は事故による」の書き出し(雑誌『新潮』昭和46年2月号「三島由紀夫追悼特集」に寄せた「三島さんのこと」)。

例へば交通事故で死んだものがあつた時にそれで改めてその思想とか生前の行状とかを云々するのは無意味であり、さうした死んだといふことが先に立つての詮索は週刊誌風の好奇心の仕業に過ぎない。(略)もしそのまま文学の仕事が続けられるならばその人間が文士であることに変りはなくて、ただ一流の仕事をする文士で情事が道楽であるのが媚薬の量を間違へるといふことがあつても別に驚くことではない。或は蝶気違ひの文士が崖に蝶を追つて墜落死することもある。先に題で示した通り、以上は三島さんのことである。

今まで、こんなに冷たくて暖かい三島蹶起の見方は読んだこともない。