農暦十二月廿四日。晴。銀行で春節「利是」用に新券入手しようと思つたら窓口で「予約してますか?」と言はれ予約してないと言ふと六ッかしさう。この支店に私の口座あるので知己のマネージャーがゐて、どうにかはなりさう。窓口で金額言つたら「そのくらいの小額なら大丈夫」だと……皆さんいったいいくら利是用意するのか……ちらりと新券ご予約済み客のリストが見えたが一人の客は8万香港ドルつまりお年玉で115万円だ、これくらゐ珍しくないのかも。
新券入手のあと知己のマネージャーが私の顔見ると「はい、これ当行でも限定版の利益袋あげます」と私に大嫌いなウォルト鼠の利是袋をくれるとは……使へない。
午後遅く橋本治さん(1948〜)逝去と築地から伝へ聞く。東大在学中に
とめてくれるなおっかさん 背中の銀杏が泣いている 男東大どこへ行く
のポスターで一躍有名になつたがアタシが最初に読んだ、ってこれが小説家としての処女作だが桃尻娘 (講談社文庫)が1978年でオンタイムで読み始め、この一連の桃尻シリーズでは無花果少年と瓜売小僧 桃尻娘 (講談社文庫)が一番印象的。彼の編むセーターはさすがだつた。香港に住み始めてから窯変 源氏物語〈1〉 (中公文庫)全巻通しで読む。光源氏が十代後半の「帚木」がいちばん桃尻語的には合つてゐたか。源氏は家に母の、たしか円地文子の現代語訳があり少し読んだが先に進まず、この橋本源氏を読み全体の物語をわかつた上で、それでやつと源氏のオリジナルを読めた私。三十年ぶりくらゐで源氏再読もしたいところ。早晩にメディアに訃報載る。
作家の橋本治さんが死去 戦後の庶民の実相すくい取る:朝日新聞 https://t.co/t1vPqK9m1b 庶民の実相って……
— 富柏村 (@fookpaktsuen) January 29, 2019
朝日の「戦後の庶民の実相すくい取る」って……いかにも朝日目線。でも同じ朝日でも数年前の、このインタビューは秀逸。
いつも自分の反対側を考える 橋本治「桃尻娘」 https://t.co/UAoEQ2u3sw
— 富柏村 (@fookpaktsuen) January 29, 2019
装丁の仕事もしていたので、書いたものを本にしたかった。編集者から小説家がえばっている話を聞いていて、小説家になれば出したい本を出版できると考えた。それで小説を書こうと思ったんです。くだらない欲望ですよね。
小説なら、おじさんたちの好きな女子高校生を書こうと。笑いも入れて。それが「桃尻娘」です。どうして一人称で書いたのかと聞かれてもわからないですね。三人称で書く発想がなかったので。
女子高校生の言葉も少女マンガや雑誌の投書欄の文体があんなものだった。そういう言葉は、考えたら、中学生ぐらいに私が使っていた言葉だった。時代が移って男の子が使っていた言葉を女の子が使うようになったんだなって。
これを書くまでは、女子高校生の悩みなんて、深刻だと思われていなかった。だから「私なんか悩んでもしょうがないね」というトーンでしか書けなかったですね。
治ちゃんらしいな、と思って読む。
40年近く前のあの頃、妙に締めつけがある時代だった。学生運動の全共闘時代の締めつけが続いていた。いちいち爆弾をしかけてぶっ壊していかないといけなかった。しかも過剰に。過剰にぶつけないと「人間っていろいろあってもいいじゃない」と言おうとしても、美しく、キチンとしていないといけないみたいになっちゃう。そういう優等生的なのは嫌なんですよ。だから「桃尻娘」では、猥雑な、強い言葉をたくさん使っている。ポルノ小説ととられても構いはしませんでした。「桃尻娘」は、真面目になりすぎるといけない、と考えるための物差しです。
一方で、「永遠の若さ」みたいな感じにも受け止められた。大人にならなくてもいいんだという時代の扉を、オレが開けちゃったのかもしれないけど、大人にならなくていいなんて思っていない。
こゝで「はっ」と思ふ。橋本治らしい、気軽に読ませておいて、のドキリ。
今の若い人って、早いうちに大人なんですよ。バカな若い子じゃなくて、バカな大人の若い版になっちゃっている気がする。私はたぶん、バカな子どもが好きなんですね。バカな子どもの時分に、いろんなことを吸収しないとダメなんじゃないかな。通過地点を大事にしなくちゃね。人生は通過地点の団子状態みたいなものだから。
既成のものに寄りかかるんじゃなくて、自分の中から何かが生まれてこないといけないな、というのは全然変わっていないですね。よく自分の中から女子高校生を生み出せたなと思う。でも、生み出す方法は知っている。自分と違うのだから、正反対に行けばいい。自分はこう考えるけど、女だったらそうは考えないなと。いつも反対側はどうなっているのかを考える。そうじゃないとゆがんじゃいますもん。
この橋本治の語りを早晩に帰宅途中、ミニバスの中で読んでゐて思はず涙腺が緩んでしまつた。今日読んだのはさういふ橋本治ワールドとは全く違ふ世界にある佐藤優。
奇才・佐藤優が昭和12年に文部省が発行した『国体の本義』を読み説くといふので興味深く拝読。アタシはこの「國體」なるものが近代の産物だと思つてしまつてゐるので、その思想が記紀の時代からの連綿としたものとして思へず、その民族に(ここを佐藤は「国民」としてゐるのだが)固有の神話があり、それが我々に何らかの影響与へてゐることは事実だらうが、その神話から今日の体制までを総括して「國體」とすることに違和感あるので、この本で佐藤先生がどれだけ國體の正確な理解が国民に必要といはれてもダメ。沖縄に母方のルーツをもつ佐藤優が沖縄については、この新書版の前書きで沖縄は沖縄独自の神話をもつ世界なので沖縄では『神皇正統紀』で展開された復古維新思想は受け入れない、としているのは確かに。