富柏村香港日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴る日剩でござゐます

国歌条例とインターナショナルスクール

農暦十二月初七。気温摂氏24度。晴。霧霾。官邸で週末の残務処理。

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今日は沙田の競馬で予想して中継見る余裕もなく最終レースでChadwick騎手の応援馬券複勝と連複、ワイドのみ投票したら的中。数千香港ドルの配当。大気汚染度高し。


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普段なら香港がかうだと深圳、広州も酷いのだが今日はさにあらず。北京だけが極度。早晩にFCCへ。広州からK君来港で飲む。啤酒でフィッシュ&チップス。カリフォルニアはClineのCashmere 2016年を抜栓。この赤を七飲みK君に何か合ふ料理を頼んでいゝよと申したらチーズプラッターが選ばれた。若いのになか/\。飲むとあまり食べない酒呑み同士で湾仔のバーMへ。いつものドライマティーニとBlack Grooseの濃い目のハイボール。晩十時過ぎで銅鑼湾からMTRに乗らうと歩いてゐたら最後の一杯といふ話になりバーSで一盡。半夜三更にMTRで帰宅。

英語の品格 (インターナショナル新書)

英語の品格 (インターナショナル新書)

 

Rochelle Koppと大野和基共著『英語の品格』読む。この書名からし南條竹則『英語とは何か』に続けて、さういふ内容かと思つてゐたら、日本人は英語は表現がストレートだと思つてゐるがさにあらず、といふ主旨で、それは良いが延々と、かういふ場合はかういふ言ひまわしにするべきの例文が続き、英語学習のために読んだわけではなかつたので一寸食傷気味。

天皇と国民の一体、今も昔も構造は変わらない 原武史氏が見る現代の天皇制:朝日新聞GLOBE+

世襲君主制は、潜在的に民主主義と矛盾する要素をはらんでいる。
平成にはいって、福祉施設や被災地、かつての激戦地への行幸啓が非常に増えた。万単位の人々が万歳した「昭和」とはちがい、「平成流」では、天皇・皇后がひざをついて、一人ひとりと話す。今度は一対一の関係で、天皇と国民がひとつになる。それを皇太子・皇太子妃時代から約60年間続けている。累積すれば、すごい数になる。明治以降の近代の天皇制の基本構造を受け継ぎつつ、「国体」がミクロ化されているように見える。
天皇が内閣や議会を媒介せず、国民一人ひとりと結びつくことで、今の政治に対する「アンチ」につながっている側面もある。本来は野党が政権へのアンチにならなければいけないのに、そうならないで、天皇・皇后を理想化して、すがっている。政党政治が空洞化するという点で、超国家主義が台頭した昭和初期に通じるものがある。
いまでも天皇に対する批判はタブーだ。2016年8月、現天皇がビデオメッセージで「退位」の意向をにじませた際も、もっと議論があると思っていたが、多くの憲法学者政治学者がすんなり認めた。天皇が「おことば」を発するや、それが絶対になる、ということは本来おかしい。

政治の不作為、埋めてきた天皇 河西秀哉氏が見る現代の天皇制:朝日新聞GLOBE+

天皇制が、ある意味で民主主義の枠外にあることは間違いない。これまで私たちは、そうした矛盾を考えないできた。その間にも、特にいまの天皇皇后両陛下は、被災地訪問や慰霊の旅を精力的に進めて、それこそが象徴としての役割だという概念を定着させてきた。
両陛下が来てくれれば、被災した人たちは「忘れられていない」と実感する。福祉施設の訪問などでも同じだ。高度成長が終わり、社会の分断がいわれるようになると、天皇は国民の「再統合」という役回りをより積極的に果たすようになる。
それが政治の不作為を埋める。沖縄でも被災地でも、本来なら政治が解決しなければいけない問題だが、天皇が行くことで、不満が顕在化するのを抑えてしまう。
いわゆるリベラルの人たちも、本来は自分たちが語らなければならないこと、しなければならないことを、天皇に仮託してしまっている。ねじれのような状況だが、戦後70年にわたって天皇制についてきちんと考えてこなかったツケのようなものかもしれない。
昭和の時代は、たとえば自民党はもっといろいろな人を包摂していた。いまは、しばしば自己責任がいわれる。そのすき間を天皇が埋めている。学生と話していても、「政治はだらしないのに、天皇は立派で……」とかいう。皇室の人気は非常に高い。
でも、皇室が問題を本質的に解決することはない。一時的に気持ちを救うことはできるかもしれないけれど、糊塗するだけ。被災地も沖縄も問題は残る。

香港で政府提案の国歌条例。学校での国旗掲揚、国歌斉唱が実質的に強制となるなか香港に数多きインターナショナルスクールはどうするのか。とくにマスコミ関心は中国国歌=義勇軍行進曲、中国の抗日戦争での歌を香港なら日本人学校がどうするのか、といふところに関心集まるのは当然か。近代の国民教育が国家によるもので何からしらの形で公教育にナショナリズム的要素あることは法蘭西でも米国でも一緒だが「度合ひ」でいへば日本の国旗国歌の動き、さらにいへば中国など露骨。今回のこの香港のことで一つ気になるのは、この愛国心教育がインター校に対しての実施が中共で国内で行われてゐるか、といふこと。答へは「ない」。新疆、蒙古といつた辺境異民族への愛国教育は露骨だが北京でも上海でもインター校に対してのかうした強制がない事実。「それが何故に香港では」なのか。一つはインター校といつても地元子女の割合がかなり高いこと(上海などでは外国人学校への人民子女入学にかなり規制あり)、もう一つは香港政府の中央政府に対する「ここまで徹底します」の奴隷根性か。