富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2018-04-08

農暦二月廿三日。陋宅の木床はパーケット(と云ふのださうな)で気に入つてはゐるがマンションは築30年余でぼこ/\。内装家Oさんに相談したら「この接着剤使ってください」で借りて俄か日曜大工。床板の隙間が気になつたものゝ茶色のパテなんてないから木工用ボンドに茶色のクレパスを粉にして混ぜて隙間もきれいに。快晴。官邸にて週末の残務処理。一つ今日のうちに済ませたい案件あつたが執務室で待つてゐると何時になるかわからないので用心してこちらから出先界隈に出向き様子窺ふと案の定で先方は事務所から出られぬ忙しさで来て頂けてありがたいと拝まれ仕事済ます頃に競馬はG2でスプリントカップは一番人気のMr Stunningと祝儀で馬主W氏のNot Listenin’toneを応援したが優勝はMSと同じSize厩舎でも二番人気のBeat The Clock馬(モレイラ騎手)で続く同じG2のチェアマンズトロフィーはPakistan Star、Beaty GenerationやTime Warpなどどれが来ても不思議しくないなかKC Leung騎手でPingwu Sparkの複勝(配当HK$26.5)に徹したら3着で的中したが優勝は10頭たて8番人気のBeaty Only(単勝37倍)が来てしまつた。夕方のFCCで週末仕事の慰労で独酌。バーのモニタに香港国際七人㰖球賽の中継が映る。第2リーグのQualifierで日本優勝の由。帰宅。夜中に起きて岩下尚史『名妓の夜咄』(文春文庫)読了。同著『芸者論』に続き新橋芸者の喜代からの聞き書きを中心に演舞場勤務長かつた著者が貴重な芸者の歴史を綴つたもの。アタシの世代だと未だ八丁目の天國の横に柳の街路樹の下、新橋の芸者が築地や木挽町に出番を待つ人力車が何台も並び、それは子どもながらにきれいな風情だつたが、この芸談は素人のアタシには本当に知らぬことばかり。引用される文章もよくぞ明治以降の花街のことを語つたものと秀逸。

(土方伯、東久世伯、園田男爵が築地升田家の二階で小酒宴したときのこと)板新道(銀座)の吉田川小梅(芸妓)を(土方伯が)傍近く呼んで懐紙へ走り書き「梅はもとより目出度い花よ、雪の中から香ひ出づ」と認ためて「何の節でも宜いから唄ってみろ」と大いに御機嫌の体。
小梅も座興になると一思案、都々逸にもならないので文弥節で唄うと老伯扇子を広げて立ち上がり指手引手も鮮やかな舞い振りに「まァ殿様のご器用なこと、是でもう少し御齢が若ければ半玉どもが打ちゃって置きませんよ」と油を打掛け奉れば「イヤ、夫れは止めて置こう。私は東久世程、小児科ではないのだ」と御酒の後で一寸とお薄の直、お開き。(吉見蒲州『紳士と芸者』より)

吉原で花魁が主で、その座敷に酒肴を運び酌をして三味線を弾くなどしてゐた芸者が明治になり新橋では三味線ばかりか唄ひや踊りの余興が芸として専業化する折から「多くの新開の三業地では同じ鑑札持つても余興どころか宴会にも出ず路地の奥なる薄暗い小待合で荒稼ぎの合間に枕元の水差しで喉を潤す不見転の数は増える一方で」「人生美を追求する風流の前衛であるべき色道が、その専門家である花街の当事者たちの意識から遠のき客と客情夫(きゃくいろ)と真夫(まぶ)との手管の諸分も芸者の必修から外されたようになった気味のある」新橋はそれと差別化が進み政財界の多くの客が宴会の場とする一流の社交の場所へとなり演舞場の東をどりに象徴される書芸の極みに。祖父は水戸で三業組合の代表をしてゐたほど、子どものころは花街の路地の賑はひを窺つて育つたアタシも花街での酒宴など一度も知らぬことばかりでせめてもの耳学問
▼晋三動静【午前】東京富ケ谷の自宅で過ごす。【午後】1時50分、東京六本木のホテルグランドハイアット東京のNAGOMI Spa & Fitnessで運動。5時36分、自宅。……激務でお疲れなのに週末はジムで3時間も運動するんだから安倍さんはやはりすごい体力と精神力だな、と感心す。

名妓の夜咄 (文春文庫)

名妓の夜咄 (文春文庫)