富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

鍾士元氏逝去

農暦十月初九。曇。大気淀む。家人が香港の昔の型血のトラムと二階建て巴士の箱に入つたネッスルキットカットチョコの限定版を購入してくる。

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一昨日、政治家の鍾士元の死去。享年百一。

李怡先生曰く中国では戊戌の年は予期せぬ大事発生。清末で120年前の戊戌改革の失敗、1958戊戌年は毛澤東の大躍進で四千万人が命を失ふ。2018年の戊戌は香港の戦後代表する偉人の相次ぐ逝去。盛唐の詩人・崔顥(〜764)の「昔人已乘黃鶴去,此地空餘黃鶴樓。黃鶴一去不復返,白雲千載空悠悠。……」を引く。國學大家の饒宗頤、光ファイバーの父でノーベル賞受賞の高錕教授、映画界では鄒文懷、武侠小説金庸、劉以鬯……そして鍾士元。英国統治時代から地元出の政治家の代表格で立法局、行政局の両局議員で英国が香港返還決めてからの孤軍奮闘。右でも左でもなく香港が良くあばれ、の姿勢。鍾士元は鄧小平に語つたといふ憂ひは「一是擔心港人治港會變成京人治港,二是擔心執行對港政策的幹部不能落實中央政策,三是擔心中國自己的政策會變」で鄧小平はこれを否定して見せたが事実、まさにこの憂ひは現実に。1984年に中英合意で返還に伴ひ中英合同の実務グループ成立したが鍾士元は、この組織が1997年以降も1984〜97年の13年同様、2010年まで存続を主張。中国は自主権主張で英国追ひ出しのあとの干渉と、こんな案は当然否定したが鍾士元の何と正鵠を射る思考よ。孤臣孽子。中共訪問し鄧小平に厭はれても鍾士元曰く

「日後非我能操縱。不論赴湯蹈火,也只是盡我所能。所謂挾泰山以超北海,是不能也,非不為也。如果你叫我和中英對抗,這是不可能的,我沒有後盾,沒有選民。如果你認為有甚麼我應該做得到的,而我未做,希望你隨時告訴我。我一無所求。只是在這個位置上,要對得起香港人。」說時態度誠懇,直率,明澈照人,我謹記至今。
他最後當然守不住那個時代。但至少他竭盡所能去守過。其後,有哪一個政治人物這樣做過呢?他所代表的那個時代去如黃鶴,現在香港是徒有其名的「空餘黃鶴樓」了。「日暮鄉關何處是,煙波江上使人愁。」香港,鄉關,使人愁。

今でもといふ名で懐かしいのは1997年の香港特区成立式典で江澤民を前に行政長官・董建華、政務司司長のアンソン陳方安生に続き行政会召集人としての鍾士元の宣誓。


中華人民共和國香港特別行政區成立暨特區政府宣誓就職儀式 1997 07 01

映像では11分あたりから。生粋の香港人普通話がまぁ下手なこと。辿々しい普通話の宣言で鍾士元の背後に並ぶ三権の長ら行政院成員は鍾士元の宣言を復唱したら平仄も狂ふので手元の宣誓文を読み必死に普通話を矯正する姿。普通話の下手な鍾士元にどれだけ愛着もつた市民が多かつたか。哀悼。