富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

コンピューターが未来を支配するのか

農暦九月初三。曇。淘宝から何か届いたが通販の記憶もなし。個包見たらAmazon Japanに注文した2019年のダイアリーがAmazonから淘宝経由で届いたもの。かうした巨大ネット通販のルートがどうなつてゐるのかさっぱりわからず。

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早晩に壽臣山。壽臣山といふ場所、島南で李嘉誠邸もあるほどの高級住宅地であり、その眼下には香港でも少なくなつた昔ながらの苫屋並ぶ一帯もあり。

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壽臣山 黄竹坑新圍

家人から、その下層地の入り口にある商店(食料品も売つてゐれば簡単な食事も供す)に見事な雄猫がゐると聞いてゐて、その店先で啤酒飲んでゐると足元に猫餌あり、どこからともなく店猫がお帰り。私を気にするでもなく少し餌を食べては、また店の中に入つたり出てきたり仕事が忙しい。店の女将がスペシャルごはん用意したらむしゃむしゃと食べてゐるところに家人来る。

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少し坂上のところにきれいな黒毛の雌猫がゐると聞き家人にはアタシの飲みかけの啤酒残して坂上にゆきマンションの入り口で管理人が可愛がる黒猫と遊ぶ。

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かつては不便な場所だつたが地下鉄の南港島線開業で海洋公園站出来て便利に。黄竹坑あたりのかつては軽工業の工場ビルが続々とオフィスとなり、昏刻はその退勤者と壽臣山界隈の工事現場帰りのオッサンたちで南港島線の混雑もひどい。
▼昨日、どの雑誌からのコピーかわからぬが堀田龍也・東北大学大学院情報科学研究科教授の「これからの情報教育」といふ資料を読む。これからの時代、例へば農業すらドローンでの田畑の管理からデータ処理といふ時代到来で情報教育が「情報教育が特別なものではなくなり、どんな業種を進路に選んでも必要とされる教養教育」になる、と。「生活が情報化し、産業が情報化する」と如何にも今様だが実は人間生活は原始時代から行為の情報化あり。だがそれを言ふと現代の面白みに欠けるから。いずれにせよさういふ時代なので今の子どもたちは情報技術を的確に用ゐていかなければならない(実はこれはデジタル前のアナログの時代も一緒)。そこで今はデジタルで情報を扱ふだけでなくプログラミング教育まで重視される。「コンピューターがどんな仕組みで動いてゐて、何ができ、何が苦手なのか、私たち人間はコンピュターをどう使っていくことが」必要なのか、と。使はれる側にならず使ふ側に。負けないためには勝つこと。これは隣の部落民を、隣の国を我々の安全保障と繁栄のため、どう襲ひ征服するか、と同じで目新しい発想でもない。それにしても今日日のデジタル時代を生き抜くために本当にコンピューターの動く仕組みやプログラミングが必要なのか。アタシはもはや過去の人類に属すがデジタル世界にどつぷり浸かつてゐるがコンピューターの動く作法もプログラミングも全く知らない。堀田教授曰く、さうした情報技術管理のノウハウこそ我々が「より人間らしく生きていくことにつながる」もので、それが学校教育の役割なのださうな。最後の結論で「人間らしさ」か。それっていつたい何だ? 筒井康隆的には本能も理性も崩れた、動物の中でも抜きん出たキチガイぶりが人間なら情報化といふキチガイな環境のなかで、それにシャブ中のやうに興奮と精神的効用に快感を得ていきてゆくことに映つてしまふ。……では、さういふデジタル情報化社会の中で人間はどうなるのか? 偶然だが今日の毎日新聞夕刊に「コンピュターが未来を支配するのか」といふ六ッかしい記事あり。ユバル=ノア=ハラリ先生の『ホモ・デウス』についてYahoo!の最高戦略責任者(なんだか怖いやうなSFのやうな肩書きだ)だつた安宅和人氏に語つてもらつてゐる。安宅先生はわりに楽観的で一神教の方々にとつての神や全能の人工知能に対して「われわれの描いてきたものはドラえもんですからね」と(笑)。

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朝日新聞(思考のプリズム)國分功一郎「民主主義の内在的欠陥「同等の観念」と政治家」より(こちら)。この連載で國分先生いつもハンナ=アレント引用。彼女の信条とする〈保守〉は今の日本の保守とは異なるもの。様々な政治制度や価値の共有を重視する立場。かつて國分先生は彼女の保守主義に反発すら感じてゐたといふが今まさにアレントの論じた政治の諸条件が崩れつゝあるなかアレントに共鳴感じるのはわかるところ。民主主義の危機。

民主主義の最も重要な原則の一つが平等。これは人類が勝ち取った誇るべき原則。「誰もが平等に尊重されねばならない」という価値観もここから導き出される。だが民主主義における平等にはもう一つ別の側面がある。平等に与えられた権利にふさわしくあるよう、自らの言葉や考えを鍛え上げることが期待されるという側面。アレント古代ギリシアの民主政を参照しながら平等と同等を区別し、後者の重要性を強調。民主主義は民衆に「政治参加の権利を行使するにふさわしい水準の者どもと同等の存在になろうとすること」を求める。だから民主主義社会では「教育による人物の涵養や報道による情報提供などの必要性」を誰も否定しない。民主主義は同等の観念によって平等の原則が単に形式的に実現されるのを退けようとする。言い換えれば、同等の観念が失われたとき、民主主義は自らに内在する欠陥を露呈する。同等の観念の完全な実現は考えられない。現実には、能力や環境の違いによって民衆の間には様々な差が存在するだろう。したがって、それを強制することがあってはならない。

浅学のアタシは今まで考えてもみなかつた平等に対する同等の概念。そこで國分先生は「だが」として「同等の観念が無条件に課されねばならない一群が存在する」といふ。それは政治家。全員が同等の実現に邁進はできないからこそ、自らの言葉と考へを鍛え上げることができた者の一部が代表として政治に直接参画する。ところが現実は全くさうなつてゐない。それどころか「言葉も考えも全く鍛え上げられていない人物」が政治家に。LGBT杉田水脈のやうに。確かにそのやうな人物にも「政治家になる権利」が「平等に」与へられてゐる。これこそ「同等の観念が理解されずに平等の原則が形式的に実現されていることの帰結」でなくてなんであらうか、と。御意。「どうすれば同等の観念を実現できるだろうか」と問ふ時、國分先生はアレントに似た保守主義の中でものを考へざるを得ぬ、といふ。

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